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06 — PORT TOWNS
尾道・鞆の浦と瀬戸内
風と潮の流れで船が動いていた時代、瀬戸内海の港には、潮の変わり目を待つ船が集まりました。朝鮮からの使節が絶景をたたえ、坂本龍馬が談判に臨んだ鞆の浦。坂と寺と文学の町・尾道。広島県東部の港町をたどります。
ラベルの意味:史実記録で裏づけ 有力説多くの研究・資料が支持 伝承言い伝え 都市伝説噂・地元の語りぐさ
鞆の浦 ― 潮待ちの港
史実福山市の鞆の浦は、瀬戸内海のほぼ真ん中にあります。満ち潮のとき、瀬戸内海には東の紀伊水道と西の豊後水道から潮が流れ込み、ちょうど鞆の沖でぶつかります。引き潮になると、潮はここから東西に分かれて流れ出します。潮の流れに乗って航海していた時代、船は鞆で潮の変わり目を待つ必要がありました。こうして鞆は「潮待ちの港」として栄えたのです。
史実港には、江戸時代の港の設備がそろって残っています。夜の船の目印になった石造りの常夜燈(1859年)、潮の干満に合わせて荷を揚げ下ろしする石段の雁木(がんぎ)、波よけの波止、船の底を焼いて手入れする焚場(たでば)、港を見張る船番所です。
ここを見る:対潮楼からの「日東第一形勝」
江戸時代、朝鮮から日本へ派遣された外交使節朝鮮通信使は、鞆に立ち寄って福禅寺に泊まりました。1711年、使節の一人は、座敷から見える仙酔島や弁天島の眺めを「日本で一番美しい景色」という意味の「日東第一形勝」とたたえ、その書が今も対潮楼に掲げられています。窓枠が額縁のように景色を切り取る座敷に座ってみてください。
いろは丸事件と坂本龍馬
史実1867年4月、坂本龍馬らの海援隊が借りていた蒸気船「いろは丸」が、鞆の沖で紀州藩の大型船「明光丸」と衝突し、沈んでしまいました。龍馬たちは鞆に上陸し、紀州藩と賠償をめぐる談判を行います。龍馬は国際的な航海のルールを持ち出して紀州藩の非を訴え、最終的に多額の賠償金を支払わせることに成功しました。
史実このとき龍馬が身を隠した廻船問屋の蔵や、談判が行われた場所が今も鞆に残っています。また、鞆の沖では1980年代から海底の調査が行われ、いろは丸とみられる船の遺物が見つかっています。その成果は、港近くの「いろは丸展示館」で紹介されています。
尾道 ― 坂と寺と文学の町
史実鞆の西にある尾道は、中世から瀬戸内海の重要な港でした。江戸時代には北前船も寄港し、豊かな商人たちが山の斜面に次々と寺を建てたため、狭い町に多くの寺が並ぶ独特の風景が生まれました。坂道と路地、そして向かいの向島との間を行き来する渡船が、今も町の暮らしを支えています。
史実尾道は文学の町としても知られます。作家の林芙美子は少女時代を尾道で過ごし、代表作『放浪記』に尾道の海と町を描きました。志賀直哉も一時期尾道に住み、その体験がのちの長編『暗夜行路』に生かされています。また、映画監督の大林宣彦が故郷・尾道を舞台に撮った一連の作品は「尾道三部作」と呼ばれ、多くのファンが町を訪れるきっかけになりました。




海の道から、橋の道へ
1999年、尾道と愛媛県の今治を、瀬戸内の島々を橋でつなぐしまなみ海道が全線開通しました。かつて潮を待つ船が行き交った海の上を、今は自転車で渡ることができます。島々で育つレモンやみかんなど、瀬戸内の味は食の部屋へ。
主な参考資料:福山市「鞆の浦の歴史」/福禅寺 対潮楼/尾道市「文学のまち尾道」/本州四国連絡高速道路「しまなみ海道」