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02 — KURE
呉と戦艦大和
広島市の南東、山に囲まれた入り江に呉の港があります。明治のはじめまで小さな村だったこの場所は、海軍の拠点となり、やがて世界最大級の戦艦「大和」を生み出しました。軍港の街が歩んだ近代と、その後をたどります。
ラベルの意味:史実記録で裏づけ 有力説多くの研究・資料が支持 伝承言い伝え 都市伝説噂・地元の語りぐさ
守りやすい入り江
史実呉の港は、三方を山に、前を江田島や倉橋島に囲まれた、波の静かな入り江です。外から攻められにくく、水深もある。この地形に目をつけた明治政府は、ここを海軍の拠点に選びました。1889年、呉鎮守府が開かれます。
史実やがて船や大砲をつくる呉海軍工廠が整えられ、呉は横須賀・佐世保・舞鶴と並ぶ軍港になりました。人口は急増し、昭和の初めには全国でも有数の大都市に数えられるほどになります。向かいの江田島には、海軍の士官を育てる海軍兵学校が置かれました。
戦艦「大和」
史実1937年、呉海軍工廠のドックで、ひそかに一隻の戦艦の建造が始まりました。1941年12月に完成した「大和」です。全長263メートル、主砲の口径は46センチと、当時の世界で最大級の戦艦でした。建造は極秘とされ、ドックの周りには目隠しの屋根や塀が設けられたといいます。
史実しかし、時代はすでに航空機の時代に移っていました。大和は大きな海戦で主砲の力を十分に発揮する機会を持てないまま、1945年4月7日、沖縄へ向かう途中、鹿児島県の坊ノ岬沖でアメリカ軍機の攻撃を受けて沈みました。乗組員の3,000人を超える人々が亡くなっています。
空襲、そして造船の街へ
史実1945年の春から夏にかけて、呉の軍港と市街地は繰り返し空襲を受け、多くの人が亡くなりました。港に残っていた艦船の多くも沈められています。
史実戦後、海軍工廠の設備と技術は民間の造船所に受け継がれました。大和をつくったドックでは巨大なタンカーが次々に建造され、呉は造船の街として日本の高度成長を支えます。今も港には海上自衛隊の艦船や潜水艦が並び、軍港の面影を残しています。
ここを見る:10分の1の「大和」と本物の潜水艦
2005年に開館した大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館)には、全長26.3メートル、10分の1の大きさの大和の模型があります。改装を経て、2026年4月にリニューアルオープンしました。向かいのてつのくじら館(海上自衛隊呉史料館)では、陸に上げられた本物の潜水艦の中に入ることができます。


坂の上の「長官官舎」
呉の入船山には、1905年に建てられた旧呉鎮守府司令長官官舎が残っています。表側は洋風、奥は和風という和洋折衷の建物で、国の重要文化財です。海を見下ろす丘の上から、軍港の街の歩みを感じることができます。広島市の街が軍とともに大きくなった歴史は、軍都の部屋へ。
主な参考資料:大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館)/呉市「入船山記念館」/海上自衛隊呉史料館/呉市史