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08 — CARP
カープと市民
原爆から5年、焼け跡に家が建ち並び始めたころ、広島にプロ野球の球団が生まれました。大きな会社の後ろ盾はなく、資金はすぐに底をつきます。そのとき球団を救ったのは、市民が入れた一枚一枚の硬貨とお札でした。
ラベルの意味:史実記録で裏づけ 有力説多くの研究・資料が支持 伝承言い伝え 都市伝説噂・地元の語りぐさ
1950年、市民の球団が生まれる
史実1950年、プロ野球がセントラル・リーグとパシフィック・リーグに分かれたこの年、広島カープがセ・リーグに加わりました。ほかの多くの球団と違い、カープには親会社がありませんでした。広島県や広島市などの自治体や地元企業が出資する、いわば市民の球団としての出発でした。
伝承球団名の「カープ」は英語で鯉のこと。広島城の別名「鯉城」にちなむとされます。名前を決める際、複数形の「カープス」にする案もあったものの、carpは複数でも形が変わらない言葉なので「カープ」になった、という話が伝わっています。
樽募金
史実選手集めにも苦労したカープは成績が振るわず、資金も底をつき、1951年には選手の給料の支払いにも困るほどになります。ほかの球団との合併や解散も取りざたされました。
史実このとき、後援会が結成され、球場の入口などに酒樽が置かれました。ファンや市民は、その樽に少しずつお金を入れて球団を支えました。これが「樽募金」です。まだ暮らしが苦しい時代に、市民が自分たちの球団を守ったこの出来事は、カープの原点として語り継がれています。
1975年、「赤ヘル」の初優勝
史実1975年、カープはヘルメットを燃えるような赤に変えました。この年、チームは快進撃を続け、10月15日、創設から26年目で初めてのリーグ優勝を果たします。「赤ヘル」はカープの代名詞となり、広島の街は赤一色に染まりました。その後もカープは、1979年・1980年に日本一に輝くなど、黄金時代を迎えます。
ここを見る:旧広島市民球場の跡地
1957年から2008年までカープの本拠地だった広島市民球場は、原爆ドームのすぐそばにありました。被爆地の真ん中で、人々は野球に声をからしたのです。今、その跡地は広場として整備されています。2009年からの本拠地・マツダスタジアムは、広島駅の近くにあり、スタンドから新幹線が見えることでも知られます。


しゃもじで応援する理由
カープの応援では、しゃもじを打ち鳴らす光景が見られることがあります。宮島の杓子は、日清・日露戦争のころ、兵士たちが「敵をめしとる(飯を取る)」として必勝を祈って奉納したことで知られる縁起物です。宮島の杓子の歴史は工芸の部屋へ。
主な参考資料:広島東洋カープ「球団の歴史」/広島市「旧広島市民球場跡地」/広島市公文書館