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00 — 千三百年のプロジェクト
20年ごとに、
神さまは引っ越す。
内宮・外宮の正殿をはじめ、65棟ほどの社殿、宇治橋、そして1500点を超える装束・神宝まで。伊勢神宮は20年に一度、すべてを隣の敷地に新しく造り替えます。費用は約550億円、準備に8年。690年から続くこの国家的プロジェクトは、戦国時代に一度、120年以上も途絶えました。それを甦らせたのは、ひとりの尼僧の托鉢でした。

この部屋の問い
なぜ「20年」なのか。
THE QUESTION
10年でも50年でもなく、なぜ20年ごとなのか。
神宮自身は「定かではない」としています。答えは一つではなく、建築・技術・経済・思想の四方向から説明されてきました。この部屋ではその説を順に検証し、遷宮という仕組みの本質に迫ります。
遷宮で新しくなるのは建物だけではありません。正殿を囲む瑞垣や御門、宝殿、そして御装束神宝と呼ばれる714種1576点の調度品――刀剣、弓矢、鏡、織物、筆や硯まで――がすべて古式のまま新調されます。二つの正宮だけでなく、14の別宮も順次建て替えられます。
社殿が建つ敷地は、東と西に同じ広さで二つ用意されています。一方に社殿が建っている20年間、もう一方は玉石を敷き詰めた更地「古殿地(こでんち)」として待機します。古殿地の中央には、小さな覆屋がぽつんと立っています。その下には正殿の床下中央に立てられる神聖な柱「心御柱(しんのみはしら)」が納められていた場所があり、次の遷宮まで大切に守られます。
四つの仮説
20年周期を説明する、四つの説
① 建材の寿命説
正殿は礎石を使わず柱を直接地面に埋める「掘立柱(ほったてばしら)」、屋根は萱葺きです。風雨にさらされる素木の建築が、清浄さを保てる限界が20年前後だという説。ただし、手入れ次第でもっと長持ちすることも分かっており、これだけでは説明しきれません。
② 技術継承説
20歳で見習いとして参加した職人は、40歳で中堅として、60歳で棟梁として遷宮に関わることができます。一生のうちに2〜3回。「設計図に書けない技」を人から人へ確実に渡すには、20年がぎりぎりの間隔だという説で、現在もっとも支持されています。
③ 穀物の保存年限説
古代の律令制度では、非常食である糒(ほしいい)などの保存年限が長く定められていました。食料の備蓄の周期と祭祀の周期が結びついたという説で、稲作の暦と神宮の深い関係から注目されています。
④ 常若(とこわか)思想説
古くなったものを修理するのではなく、新しく造り替えることで、いつまでも若々しい状態を保つ。「永遠」を、石の建築ではなく「繰り返し」で実現しようとする日本的な考え方の表れだという説です。
プロジェクトの全行程
8年がかりの「引っ越し」
遷宮は、社殿が完成した日に神さまが移るだけの行事ではありません。第62回(2013年)を例にとると、最初の祭典から遷御まで8年。30を超える祭典・行事が、決められた順番で進んでいきます。
山口祭・御杣始祭(みそまはじめさい)
御用材を伐り出す山の入口で山の神を祀る。木曽の御杣山では、斧を三方から入れる古来の伐採法「三ツ紐伐り」でご神木が伐られた。
御木曳(おきひき)
伐り出された御用材を、伊勢の町の人々が木橇や奉曳車に載せて神域へ曳き入れる。内宮へは五十鈴川を川曳きで遡る。
鎮地祭
新しい社殿を建てる御敷地を祓い清め、工事の安全を祈る。
宇治橋渡始式
遷宮に先立って宇治橋が架け替えられる。全国から選ばれた「三代そろった夫婦」が先頭で渡り初めをする。
立柱祭・上棟祭
正殿の柱を立て、棟木を上げる。社殿建築のクライマックス。
お白石持行事
宮川の河原で拾い集めた白石を、市民が新しい正殿の周囲に一つずつ奉献する。
遷御(せんぎょ)
内宮は10月2日、外宮は10月5日の夜。すべての灯りが消された闇の中、ご神体が絹垣に囲まれて新宮へと遷る。
遷御の夜は、完全な闇――午後8時、境内の明かりがすべて消され、神職が「カケコー」と鶏の鳴き声を三度唱えます。天岩戸神話で、鶏を鳴かせて天照大神を岩屋から呼び出した場面の再現とされます。奉拝を許された参列者は、闇の中で絹垣が進む衣擦れの音だけを聞くことになります。
木を育てる200年計画
御用材1万本を、どこから調達するか
一回の遷宮に必要なヒノキはおよそ1万本。大きな柱には、直径1メートルを超える、樹齢200年以上の巨木が必要です。古代には、神宮の背後に広がる神路山・島路山が御用材を伐り出す「御杣山(みそまやま)」でした。しかし遷宮を繰り返すうちに良材は尽き、鎌倉時代以降、御杣山は三河・美濃へと移り、江戸時代中期からは木曽の山々が担ってきました。
危機感を抱いた神宮は、大正12年(1923)に「神宮森林経営計画」を立てます。目標は、200年後に再び神宮の森だけで御用材をまかなうこと。植林から始まったこの超長期計画は着実に実を結び、2013年の第62回遷宮では、約700年ぶりに神宮の森で育ったヒノキが御用材の一部として使われました。
神宮の森(宮域林)は約5500ヘクタール。伊勢市の面積のおよそ4分の1にあたります。このうち人の立ち入る参道周辺はほんの一部で、大半は五十鈴川の水源を守る森と、遷宮用のヒノキを育てる森です。伊勢の人が「神宮さんの森があるから五十鈴川はきれい」と言うのは、比喩ではなく事実です。
中断の120年
戦国の闇と、ひとりの尼僧
室町時代後期、応仁の乱をはさんで朝廷と幕府の財政は破綻し、遷宮の費用を捻出できなくなります。内宮は寛正3年(1462)を最後に、外宮はそれ以前から遷宮が途絶え、その空白は両宮とも120年を超えました。社殿は荒れ、仮の殿舎で祭祀をしのぐ時代が続きます。
この状況を動かしたのが、宇治にあった尼寺・慶光院の尼僧清順(せいじゅん)でした。彼女は諸国を巡って寄付を募る「勧進」を行い、まず宇治橋を架け替え、ついに永禄6年(1563)、外宮の遷宮を129年ぶりに実現させます。清順の遺志を継いだ周養は、織田信長・豊臣秀吉の支援を取り付け、天正13年(1585)、内宮・外宮の遷宮を同じ年に果たしました。以後、慶光院は江戸時代を通じて遷宮の実務に深く関わることになります。
朝廷にも幕府にも頼れないとき、遷宮を支えたのは全国の名もなき人々の寄付だった。伊勢信仰が「国家の祭祀」から「庶民の信仰」へと広がる転換点
バタフライエフェクト:ひとつの中断が生んだもの
- 1467〜応仁の乱と財政破綻朝廷・幕府が遷宮費用を負担できなくなる
- 15〜16c遷宮の途絶と勧進の始まり慶光院の尼僧らが諸国で庶民から寄付を集める
- 16c〜伊勢信仰が庶民のものに寄付をした人々にとって、伊勢は「自分たちの神宮」になる
- 17c〜御師のネットワークが全国へ伊勢講が各地に組織され、参宮が庶民の夢の旅に
- 1705〜数百万人規模のおかげ参り日本初の大衆観光ブームとも言われる現象へ
捨てない神宮
古材は、60年かけて三度働く
遷宮で役目を終えた古い社殿の部材は、捨てられることはありません。もっとも有名なのが、正殿の両端で棟を支える太い柱「棟持柱(むなもちばしら)」の行方です。
内宮の旧正殿の棟持柱は宇治橋の内側(神域側)の鳥居に、外宮のものは外側の鳥居に削り直されて使われます。さらに20年後、宇治橋の鳥居は、東海道・鈴鹿峠のふもと関宿の「東の追分」と、桑名の「七里の渡し」に立つ鳥居として再び建てられます。江戸時代、東から来た旅人は関で、船で渡ってきた旅人は桑名で、この鳥居をくぐって「伊勢の国に入った」ことを実感しました。
ほかの古材も、全国の神社の修繕や建て替えに譲られます。東日本大震災の後には、被災した神社の再建にも神宮の古材が使われました。

玄人の見どころ:宇治橋の鳥居を見上げたら、20年前まで正殿の棟を支えていた柱だと思ってください。反対に関宿や桑名で鳥居を見かけたら、それは40年前に伊勢の正殿に立っていた柱かもしれません。
数字で見る遷宮
第62回式年遷宮(2013年)
国費ではなく、神宮の自己資金と全国からの奉賛金でまかなわれた。
木曽の国有林を中心に、一部は約700年ぶりに神宮の森から。
714種。工芸の各分野の名工が、古式どおりに手作りする。
2005年の山口祭から2013年の遷御まで。
690年の第1回から数えて。次回第63回は2033年の予定。
両宮の参拝者数としては当時の過去最多を記録した。
次を読む
二つの宮は、どう違うのか
遷宮の舞台となる外宮と内宮。参拝の順番、千木の形、参道の歩き方にまで、はっきりとした違いがあります。