トップ / 百二十五の宮社

02 — 地図で読む神宮

「伊勢神宮」という神社は、
じつは存在しない。

正式名称は、ただの「神宮」。そしてそれは一つの神社ではなく、伊勢市を中心に三重県の4市2町に点在する125の宮社すべての総称です。山奥に鎮まる「遥宮」、元寇の神風で格上げされた宮、そして江戸時代に「こちらこそ本宮だ」と訴え出た宮まで。地図の上で神宮を読み直します。

木立の中に並ぶ月讀宮の四つの社殿
月讀宮・四つの別宮が並ぶ

この部屋の問い

125という数は、何を数えているのか。

THE QUESTION

なぜ、「神宮」はこれほど多くの宮社から成っているのか。

125社は、それぞれ別の神社ではなく、二つの正宮を中心にした一つの組織です。その成り立ちを知ると、伊勢の信仰が「一点」ではなく「面」で広がっていることが見えてきます。

正宮 214別宮43摂社24末社42所管社神宮125社の内訳正宮2+別宮14+摂社43+末社24+所管社42=125
宮社の格と数
格数どんな宮社か
正宮2内宮(皇大神宮)と外宮(豊受大神宮)。
別宮14正宮の「わけみや」。内宮に属するもの10、外宮に属するもの4。
摂社43平安時代の『延喜式』神名帳に名が載る、古い由緒を持つ社。
末社24それより前、延暦年間の『儀式帳』に名が載る社。
所管社42上記以外で、正宮・別宮に深く関わる社。御酒や御塩、機織りを担う社も。

玄人の視点:「摂社は延喜式、末社は儀式帳」という区分は、格の上下というより、どの時代の公式記録に名前が載っているかという分類です。所管社の中には、神に供える酒を醸す「御酒殿神」、塩を焼き固める「御塩殿神社」、神の衣を織る「神服織機殿神社」など、神宮の自給システムを担う社が含まれています。

別宮の一覧

十四の「わけみや」

所属別宮ひとこと
内宮荒祭宮(あらまつりのみや)天照大御神の荒御魂。正宮に次ぐ格式で、正宮の北側に鎮まる。
内宮月讀宮・月讀荒御魂宮・伊佐奈岐宮・伊佐奈弥宮内宮から北へ約2km。四つの別宮が一列に並ぶ珍しい景観。
内宮瀧原宮・瀧原竝宮度会郡大紀町の山中。「遥宮(とおのみや)」と呼ばれる。
内宮伊雑宮(いざわのみや)志摩市磯部町。こちらも「遥宮」。御田植祭で知られる。
内宮風日祈宮(かざひのみのみや)風雨の神。元寇の後に「宮」へ格上げされた。
内宮倭姫宮(やまとひめのみや)大正12年(1923)創建。別宮の中で最も新しい。
外宮多賀宮豊受大御神の荒御魂。98段の石段の上に鎮まる。
外宮土宮・風宮土地の守り神と、風雨の神。
外宮月夜見宮外宮の北。外宮から続く道は「神路通り」と呼ばれる。

月夜見宮と外宮を結ぶ一本道「神路通り」は、夜になると月夜見宮の神さまが外宮へ通う道だと言い伝えられてきました。そのため地元では、道の中央を歩かないように、という話が語り継がれています。

神風の宮

元寇が、ひとつの社の格を上げた

内宮の風日祈宮と外宮の風宮は、ともに風雨の神をまつる社です。もとは「風神社」という小さな社でしたが、鎌倉時代の弘安4年(1281)、モンゴル帝国の軍勢が二度目に日本に襲来した弘安の役の際、朝廷は伊勢に勅使を送って国難の退散を祈りました。その後、暴風雨で元の船団が大きな被害を受けたことが「神風」として語られ、正応6年(1293)、二つの社は別宮に格上げされ、「宮」の名を与えられます。

  1. 1281弘安の役元・高麗の大軍が北九州へ襲来
  2. 同年伊勢への祈願朝廷が風の神を含む神々に国難退散を祈る
  3. 同年暴風雨で元軍が大打撃のちに「神風」として語り継がれる
  4. 1293風社が「宮」に昇格風日祈宮・風宮として別宮に列せられる
  5. 近代「神風」という言葉のひとり歩き国難を救う神の力の象徴として、近代の戦争で繰り返し使われていく

遥宮と、本宮騒動

山奥の宮と、「本当の本宮」を名乗った宮

内宮から遠く離れた二つの別宮、瀧原宮(大紀町)と伊雑宮(志摩市)は、「天照大御神の遥宮(とおのみや)」と呼ばれます。瀧原宮は、倭姫命が大神の鎮座地を探して巡った際にいったん宮を定めた場所と伝えられ、深い杉木立に囲まれた境内は「内宮よりも古い伊勢の姿を残す」と言われるほど。神宮の別宮で唯一、神さまの御船を納める「御船倉」があるのも特徴です。

伊雑宮は、毎年6月24日の御田植祭で知られます。香取神宮、住吉大社とともに日本三大御田植祭に数えられ、泥田の中で大きな団扇を奪い合う「竹取神事」は勇壮そのものです。

泥田の中で男たちが竹を奪い合う伊雑宮御田植祭の竹取神事
伊雑宮御田植祭の竹取神事志摩市磯部町・6月24日
史実

伊雑宮こそが本宮だ――江戸前期の「伊雑宮事件」

江戸時代前期、伊雑宮の神職たちが「伊雑宮こそ天照大御神の本宮であり、内宮・外宮はその後にできたものだ」と主張し、幕府を巻き込む騒動に発展しました。さらにその主張を裏付けるとされた『先代旧事本紀大成経(せんだいくじほんぎたいせいきょう)』という書物が世に出ますが、幕府はこれを偽書と断じ、天和元年(1681)に版木を没収、関係者を処罰しました。伊雑宮をめぐるこの一件は、のちに六芒星や古代史の「異説」と結びつけられ、現代の都市伝説の種にもなっています(詳しくは「伝説と都市伝説」の部屋で)。

元伊勢

天照大御神は、なぜ伊勢に来たのか

『日本書紀』によると、天照大御神はもともと宮中でまつられていました。しかし崇神天皇の時代、その神威を畏れた天皇は、皇女・豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)に託して宮中の外、倭(やまと)の笠縫邑(かさぬいのむら)にまつらせます。次の垂仁天皇の時代、その役目を引き継いだのが倭姫命(やまとひめのみこと)です。倭姫命は大神が鎮まるにふさわしい地を求めて、近江、美濃などを巡り、最後に伊勢の五十鈴川のほとりにたどり着きました。そこで大神は「この神風の伊勢の国は、常世の浪の重浪(しきなみ)帰(よ)する国なり。……この国に居らむと欲ふ」と告げたとされます。

この巡行の途中で一時的に大神がまつられたと伝わる場所は、各地で「元伊勢(もといせ)」と呼ばれています。京都府宮津市の籠神社や、福知山市大江町の皇大神社などが知られ、その数は二十数か所にのぼります。

倭姫命を描いた江戸時代の摺物
江戸時代の摺物に描かれた倭姫伝承の皇女

倭姫宮は、じつは一番新しい。伊勢神宮の「生みの親」ともいえる倭姫命をまつる倭姫宮は、地元の人々の長年の願いを受けて大正12年(1923)に創建されました。二千年近い歴史を持つ神宮の中で、最も新しい別宮です。

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125の宮社へ、人々はどうやって来たのか

江戸時代、庶民の伊勢参りを演出したのは「御師」という旅のプロデューサーでした。

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