トップ / 神都の近代
09 — 近代化の光と影
「神都」と呼ばれた町の、
百五十年。
明治維新は、伊勢の町を根底から変えました。寺が消え、御師が消え、代わりに鉄道と博物館と、国家の祭祀の中心としての顔がやってきた。宇治山田市、神都線、参宮急行――「神都(しんと)」と呼ばれた時代の伊勢を、ひとつの出来事が次の出来事を呼ぶ連鎖としてたどります。

この部屋の問い
明治維新で、伊勢から何が消えたのか。
THE QUESTION
江戸時代の伊勢にあって、今の伊勢にないものは何か。
答えは「お寺」と「御師」です。江戸時代の宇治・山田には数多くの寺院があり、御師の屋敷が軒を連ねていました。明治初年、その両方がわずか数年のうちに姿を消します。
明治元年(1868)の神仏分離令をきっかけに、全国で寺院や仏像を排斥する「廃仏毀釈」が起こりました。とりわけ神宮のお膝元である宇治・山田では、その動きが激しく、200近い寺院が廃寺になったと言われます。神宮の境内やその周辺からも仏教的なものが取り除かれ、僧侶の姿は神域から完全に消えました。
さらに明治4年(1871)の神宮改革では、世襲の神職制度とともに御師の制度が廃止されます。江戸時代を通じて伊勢の経済を支えた仕組みが、一夜にして失われたのです。
天皇と神宮
明治天皇の親拝という「初めて」
明治2年(1869)、明治天皇は神宮に参拝しました。天皇が自ら神宮に参拝したことが確かな記録として残るのは、これが初めてとされます。古代から天皇は神宮に勅使を遣わしてきましたが、自ら足を運ぶことはありませんでした。この親拝は、神宮が「国家の祭祀の中心」として位置づけられていく、近代の始まりを象徴する出来事でした。
- 1868神仏分離令神宮周辺で激しい廃仏毀釈が起こる
- 1869明治天皇の神宮親拝天皇と神宮の結びつきが可視化される
- 1871神宮改革と御師の廃止御札は「神宮大麻」として全国に頒布される仕組みに
- 1886〜神苑会の活動宇治橋前などの民家を移転し、現在の広々とした神苑を整備
- 戦前「神都」宇治山田国家の聖地として、修学旅行や団体参拝の目的地に
玄人の視点:宇治橋前の広場は、もとは町だった。現在、内宮の宇治橋前には芝生と玉砂利の広々とした空間がありますが、江戸時代にはこのすぐ近くまで旅館や民家が建ち並んでいました。明治19年(1886)に設立された民間団体「神苑会」は、これらの建物を移転させ、神域にふさわしい景観として神苑を整備しました。私たちが「昔からの伊勢の風景」だと思っているものの一部は、明治につくられたものなのです。
鉄道が来た
参宮鉄道、神都線、そして参宮急行
参宮鉄道 開業
津から宮川まで。4年後の1897年には山田(現在の伊勢市駅)まで延び、伊勢が鉄道で結ばれる。
路面電車が走り始める
のちに「神都線」と呼ばれる路面電車が開業。宇治山田駅や外宮、内宮、二見を結び、参拝客の足となる。
宇治山田市 誕生
宇治と山田、二つの門前町が一つの市に。「神都」の呼び名が定着していく。
参宮急行電鉄 開通
大阪と伊勢を直結する高速電車が開業(現在の近鉄)。1931年には鉄筋コンクリートの宇治山田駅が完成。
伊勢市に改称
宇治山田市は「伊勢市」と名を改める。
神都線 廃止
自動車の普及により、半世紀以上走った路面電車が姿を消す。
宇治山田駅は、昭和6年(1931)に完成した鉄筋コンクリート3階建ての駅舎で、国の登録有形文化財です。スペイン風の瓦やテラコッタの装飾をまとった堂々たる姿は、大阪から特急でやって来る参拝客を迎える「神都の玄関」にふさわしいものでした。
バタフライエフェクト:鉄道が変えた伊勢参り
- 江戸徒歩で数週間の旅伊勢に着いた参拝者は御師の屋敷に泊まり、数日かけて各地を巡った
- 1930大阪から日帰り圏に参宮急行の開通で、関西からの日帰り参拝が可能に
- 昭和宿泊しない参拝の定着伊勢は「泊まる町」から「立ち寄る町」へと変わっていく
- 昭和後期車社会と門前町の空洞化駐車場から直行する参拝が増え、門前町を歩く人が激減
- 1993〜門前町の再生へおかげ横丁の誕生で、「歩いて楽しむ伊勢」が復活する
博物館の丘
倉田山に集められた、神宮の知
内宮と外宮の間にある倉田山には、明治期に神宮の歴史や文化を伝える施設が集められました。
神宮徴古館
明治42年(1909)開館。設計は赤坂離宮(迎賓館)を手がけた片山東熊。ルネサンス様式の建物に、神宮の歴史資料や遷宮で撤下された御装束神宝などを展示します。戦災で被災したのち、外観を生かして再建されました。
神宮農業館
明治24年(1891)開館の、日本で最も古い産業博物館の一つとされる施設。神饌として供えられる農林水産物の標本などを通じて、神宮と食の関わりを伝えます。
神宮美術館
第61回遷宮を記念して1993年に開館。遷宮に際して奉納された美術・工芸品を収蔵しています。
倭姫宮
同じ倉田山には、大正12年(1923)に創建された別宮・倭姫宮も鎮まります。博物館と別宮を合わせて巡れる、静かな丘です。
戦争と戦後
国家の神宮から、国民の神宮へ
昭和20年(1945)の空襲では宇治山田市も大きな被害を受け、神宮の一部や周辺の施設も被災しました。敗戦後、GHQの「神道指令」によって国家と神道は切り離され、神宮は一つの宗教法人として新たな歩みを始めます。
戦後最初の式年遷宮は、本来であれば昭和24年(1949)に行われるはずでした。しかし戦後の混乱と資金難で延期され、同年には宇治橋の架け替えだけが先に行われます。そして全国の人々からの奉賛金によって、昭和28年(1953)、第59回式年遷宮がようやく実現しました。国費ではなく、国民の寄付によって遷宮を行う――それは戦国時代の勧進と同じ構図であり、現在の遷宮まで続く形の出発点となりました。
宇治山田空襲
市街地の多くが被災。
神宮、宗教法人に
国家管理から離れ、独立した宗教法人として再出発。
第59回式年遷宮
予定から4年遅れ、全国の奉賛によって実施。
伊勢湾台風
神宮の森にも大きな被害が出る。
伊勢志摩サミット
G7首脳が内宮を訪問。伊勢の名が世界に発信される。
次を読む
伊勢をつくった人々
遷宮を甦らせた尼僧、俳諧の祖となった神官、真珠王、そして門前町を救った経営者。