トップ / 御師とおかげ参り
03 — 江戸の観光産業
江戸の旅行代理店、
その名は「御師」。
江戸時代、伊勢参りは庶民にとって一生に一度の夢の旅でした。その旅を、企画から集客、宿泊、食事、ガイド、そしてお土産まで一手に引き受けたのが「御師(おんし)」です。最盛期には山田と宇治に数百の御師の家が軒を連ね、ほぼ60年ごとに数百万人が伊勢へ押し寄せる「おかげ参り」が起きました。

この部屋の問い
庶民は、どうやって旅費を工面したのか。
THE QUESTION
旅行が自由ではなかった江戸時代に、なぜ伊勢参りだけは許されたのか。
江戸時代、庶民が勝手に国境を越えることは難しいものでした。ところが「伊勢参り」と言えば、通行手形は比較的簡単に出され、奉公人が主人に無断で出かけても咎められないことすらありました。その仕組みを作り、全国に広めたのが御師です。
御師は、もとは神職の身分を持ちながら、参拝者のために祈祷を行う人々でした。熊野や富士山などにも御師はいましたが、他の地域では「おし」と読むのに対し、伊勢では「おんし」と呼ぶのが特徴です。
御師はそれぞれ、全国の地域を「檀那場(だんなば)」として受け持っていました。毎年、担当地域の家々を回って、神宮の御札(御祓大麻)と、農作業の目安となる伊勢暦を配ります。伊勢暦は全国で使われる暦のひとつとなり、配られた家々にとって、伊勢は一年中身近な存在になりました。そして、実際に参拝に来る人々を自分の屋敷に泊め、神楽を奉納させ、豪華な料理でもてなしたのです。
御師の家は、外宮のある山田と内宮のある宇治に集中していました。18世紀のある時期には、山田に600軒以上、宇治に200軒以上の御師がいたとする記録もあります。伊勢市内の古い町名や屋号に、その名残が今も残っています。
御師のフルコース
一生に一度の「VIP待遇」
伊勢に着いた参拝者を待っていたのは、至れり尽くせりのもてなしでした。
宮川の渡しまで出迎え
御師の手代(使用人)が、伊勢の入口である宮川のほとりまで迎えに出る。
御師の屋敷へ
立派な座敷に、ふかふかの絹布団。普段の暮らしでは考えられない寝床だった。
太々神楽の奉納
屋敷内の神楽殿で、華やかな神楽を奉納。講の人数と奉納額によって規模が変わった。
山海の御馳走
伊勢海老や鮑、鯛など、海の幸をふんだんに使った本膳料理でもてなす。
両宮と周辺の案内
外宮・内宮に加えて、二見や朝熊山まで案内する。現代のツアーガイドそのもの。
御札とお土産
講の仲間に配る御札や伊勢土産を持たせて送り出す。
伊勢講と「代参」――日本最古の旅行積立:地域の人々は「伊勢講」という組織をつくり、毎月少しずつお金を積み立てました。そしてくじ引きで選ばれた数人が、講の代表として伊勢に参る「代参」を行います。代参者は講の全員分の御札を持ち帰るので、行けなかった人にもご利益が行き渡る仕組みでした。何年か続ければ、講のメンバー全員に順番が回ってきます。
おかげ参り
人口の6人に1人が、伊勢を目指した
江戸時代には、ほぼ60年周期で、爆発的な集団参詣「おかげ参り」が起きました。きっかけは「伊勢神宮の御札が空から降ってきた」といった噂で、それが瞬く間に広がり、人々は仕事を放り出して伊勢へ向かいました。
当時の日本の人口は3000万人ほど。文政13年(1830)のおかげ参りでは、数か月のうちに400万人を超える人々が伊勢に向かったとされ、単純に計算すると国民の6〜7人に1人が動いたことになります。
抜け参り
奉公人や子どもが、主人や親に黙って伊勢に向かうこと。伊勢参りの帰りであれば、御札を見せれば罰せられないのが暗黙の了解だった。
施行(せぎょう)
街道沿いの人々や裕福な商人が、参拝者に食事や宿、わらじなどを無償で振る舞った。「おかげ」とは、こうした人々の助けと神の恵みのこと。
柄杓(ひしゃく)
おかげ参りの人々は柄杓を手に持って歩いた。施しを受ける器であり、「おかげ参りの者です」という目印でもあった。
おかげ犬
病気などで行けない飼い主の代わりに、犬が伊勢に参ったという記録が残る。首に御札代と名札を付けた犬を、街道の人々が次々とリレーして伊勢まで送り届けたという。
御師が生んだもの
山田羽書と、町の自治
御師の繁栄は、伊勢の町に独自の経済と自治を生みました。中世から近世にかけて、外宮門前の山田は「三方会合(さんぽうえごう)」、内宮門前の宇治は「宇治会合」と呼ばれる自治組織によって運営されていました。武士ではなく、御師を中心とする有力な町人たちが、町の行政や裁判まで担っていたのです。
そして山田では、江戸時代初期ごろから「山田羽書(やまだはがき)」と呼ばれる紙の証券が流通していました。釣り銭の不足を補うため、御師を兼ねた商人たちが発行したもので、日本最古の紙幣とも言われています。のちに各藩が発行する藩札の先駆けとされ、伊勢の経済の厚みを物語っています。

- 中世〜御師の信用ネットワーク全国の檀那場と伊勢を結ぶ人と金の流れ
- 1600頃山田羽書の発行小銭不足を補う紙の証券が町で流通
- 17c〜藩札の広がり各地の藩が紙幣を発行する時代へ
- 1871御師制度の廃止明治政府の神宮改革で御師は廃止され、御札の頒布は神宮が直接行うように
御師のその後:明治4年(1871)、御師制度は廃止され、全国に配られていた御札は「神宮大麻」として神宮が一元的に頒布する形に改められました。職を失った御師の多くは旅館業や商業に転じ、伊勢の町の姿は大きく変わります。現在、伊勢市内に残る「旧御師 丸岡宗大夫邸」は、往時の御師の屋敷の様子を伝える貴重な建物です。
伊勢音頭
「せめて一生に一度でも」
伊勢に行きたい 伊勢路が見たい せめて一生に一度でも江戸時代に広く歌われた伊勢音頭の一節
伊勢音頭は、伊勢参りから帰った人々によって全国に持ち帰られ、各地の民謡に取り入れられていきました。今も日本各地の祭りや宴席で「伊勢音頭」の名残をもつ歌が歌われているのは、それだけ多くの人が伊勢を訪れ、その思い出を故郷に持ち帰った証拠です。
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伊勢参りの「本当の目的」?
外宮と内宮の間の丘には、江戸屈指の歓楽街・古市がありました。「伊勢参り 大神宮にもちょっと寄り」。