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02 — PIONEERS

屯田兵と永山武四郎

1891年から3年続けて、400戸ずつ。家族ごと海を渡ってきた屯田兵が、原生林の盆地を畑に変えました。その先頭に立ったのが「屯田兵の父」永山武四郎。地名の「永山」は、この人の名前です。

ラベルの意味:史実記録で裏づけ 有力説多くの研究・資料が支持 伝承言い伝え 都市伝説噂・地元の語りぐさ

兵士であり、農民でもある人々

史実屯田兵は、ふだんは土地を開墾して農業を営み、いざというときは兵士として戦う人々です。北海道の守りと開拓を同時に進めるため、1875年(明治8年)に札幌近郊の琴似から始まりました。旭川に屯田兵が入ったのは、制度が内陸へと広がった後半期のことです。

年入植地戸数
1891年(明治24年)永山兵村400戸
1892年(明治25年)旭川兵村(現在の東旭川)400戸
1893年(明治26年)当麻兵村(現在の当麻町)400戸

一戸あたりに与えられた土地は約5町歩(およそ5ヘクタール)。本州の平均的な農家の数倍にあたる広さですが、そこは大木が茂る原生林でした。木を切り倒し、根を掘り起こし、ようやく畑ができる。最初の冬を越せるかどうかが、家族の生死を分けました。

「屯田兵の父」永山武四郎

史実永山武四郎(1837〜1904)は薩摩藩出身の軍人です。屯田兵の制度づくりに長く関わり、屯田兵本部長として北海道各地の兵村を育てました。上川を「北京」の候補地として視察した一人でもあります。

1896年に第七師団が創設されると、初代の師団長に就任。さらに北海道庁長官も務め、北海道の軍事と行政の両方で頂点に立ちました。上川の開拓に深い思い入れがあったといわれ、最初に拓かれた兵村には彼の名をとって「永山」の名がつけられました。

史実

永山神社

永山地区には、永山武四郎をまつる永山神社があります。1920年(大正9年)に祭神として迎えられました。開拓の祖を神としてまつるのは、北海道ではめずらしくありません。

伝承

「永山さんの町」という誇り

永山の古い家では、今も屯田兵の子孫であることを誇りにする人が多いといいます。地名が人名に由来することを、地元の人は当たり前のように知っています。

兵村の暮らし

兵屋と呼ばれる住まいは、間取りの決まった木造の小さな家でした。冬の寒さは本州出身の家族には想像を超えるもので、すきま風の入る家で−30℃の夜を越さなければなりません。訓練と開墾、そして家族の暮らしを同時に回す日々です。

やがて畑には米が植えられるようになります。寒冷地での稲作は困難とされていましたが、品種改良と工夫が重ねられ、上川盆地は北海道有数の米どころへと育っていきました。今日、旭川の酒づくりを支える米の背景には、この開拓の歴史があります。

ここを見る:旭川兵村記念館

東旭川の旭川神社の境内にある旭川兵村記念館には、屯田兵の暮らしの道具や兵屋の資料が集められています。当時の開墾道具の大きさ・重さを見ると、原生林を畑に変える作業の過酷さが実感できます。

旭川兵村記念館
旭川兵村記念館東旭川
永山神社
永山神社永山

バタフライエフェクト:1200戸が町の骨格に

3年で1200戸、家族を含めれば数千人。兵村の区画がそのまま農地と道路の骨格になり、いまの永山・東旭川・当麻の町並みにも受け継がれています。屯田兵がいなければ、師団が来る前の上川盆地に「人が住む基盤」はありませんでした。

主な参考資料:旭川市「旭川市史」/旭川兵村記念館 展示資料/永山神社「由緒」

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