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03 — THE GARRISON TOWN
軍都と師団通り
1901年、札幌から第七師団がやって来て、旭川は「軍都」になりました。駅から師団へ向かう一本道は、戦後「平和通」と名を変え、やがて日本で初めての恒久的な歩行者天国に。一本の道がたどった、70年の物語です。
ラベルの意味:史実記録で裏づけ 有力説多くの研究・資料が支持 伝承言い伝え 都市伝説噂・地元の語りぐさ
「北鎮部隊」第七師団
史実第七師団は1896年(明治29年)5月12日、屯田兵を母体に札幌で創設されました。初代師団長は永山武四郎。北の守りを担うことから「北鎮部隊」と呼ばれます。
その師団を旭川へ移す計画が動き出し、1899年(明治32年)に近文の原野で兵営の建設が始まりました。1898年に鉄道が旭川まで通じていたことも、移駐を後押ししました。1901年(明治34年)10月に師団司令部が移り、翌年には新しい庁舎が完成します。
師団の町には、兵士とその家族、出入りの商人、建設に携わる職人が一気に集まりました。人口は急増し、旭川は北海道内陸の中心都市へと駆け上がっていきます。師団の兵士たちは日露戦争に出征し、1939年(昭和14年)のノモンハン事件、太平洋戦争にも動員されました。町の繁栄と、多くの戦死者。軍都には両方の顔がありました。
ある大工事の舞台裏
史実兵営の建設を請け負ったのは、実業家の大倉喜八郎が関わる大倉組でした。大規模な工事は旭川に多くの仕事をもたらしましたが、同じ時期、師団の予定地に近い近文のアイヌの人々の土地をめぐって大きな問題が起きています(詳しくは上川アイヌの部屋へ)。軍都の誕生は、誰にとっても同じ意味を持っていたわけではありません。
師団通り → 平和通 → 買物公園
旭川駅から北へ、旭橋を渡って師団へ向かう道は「師団通り」と呼ばれ、商店が軒を連ねる目抜き通りになりました。昭和の初めには、通りにスズランをかたどった街灯が並んだといわれます。
史実1945年の敗戦で師団はなくなり、通りは「平和通」と改められます。そして高度成長期、車があふれる中心街で、ある実験が行われました。
プロジェクトX的瞬間:12日間の社会実験
1969年(昭和44年)8月6日から17日までの12日間、平和通から車を締め出す実験が行われました。1日1万6千台以上の車が通る道です。商店主の間には「客が来なくなる」という反対も強かったといいます。ところが実験が始まると、通りは歩く人でにぎわいました。車がなくても、町は困らない。むしろ人が戻ってくる。この結果が決め手となり、1972年(昭和47年)6月1日、日本初の恒久的な歩行者天国「平和通買物公園」が誕生しました。
買物公園は駅前から約1キロ、幅20メートル。ベンチや彫刻、花壇が置かれ、全国から視察が相次ぎました。「歩いて楽しい中心街」という考え方を、日本でいち早く形にしたのが、かつての軍都の目抜き通りだったのです。


ここを見る:北鎮記念館と「師団の町」の名残
師団があった春光・春光町周辺には、現在も陸上自衛隊の駐屯地があり、その一角の北鎮記念館では屯田兵から第七師団までの歴史を展示しています。周辺を歩くと、旧師団の建物を使った施設や、軍の用地だった広い区画が今も見つかります。
「買物公園は失敗だった」?
郊外の大型店に客を奪われ、中心街がさびれた時期もあったため、こうした声も聞かれる。ただし近年は再整備やイベントで、人の流れを取り戻す取り組みが続く。
日本初の恒久的歩行者天国
日曜だけの歩行者天国ではなく、常設の歩行者空間として道路を公園化したのは、買物公園が日本で最初。
主な参考資料:旭川市「平和通買物公園の概要」/北鎮記念館 展示資料/旭川市「旭川市史」