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川と橋のまち

市内を流れる川はおよそ160本、橋は700を超えるといわれる旭川。「旭川」という名前そのものが、ひとつの川の名の聞き取りから生まれました。地形と名前から、この町の成り立ちを読みます。

ラベルの意味:史実記録で裏づけ 有力説多くの研究・資料が支持 伝承言い伝え 都市伝説噂・地元の語りぐさ

四つの川が出会う「結び目」

地図で旭川の中心部を見ると、川がまるで手のひらの指のように一点へ集まっているのがわかります。本流の石狩川に、南東の大雪山から忠別川、その忠別川に南から美瑛川、そして北東から牛朱別川。四つの川は、市街地のすぐそばで合流します。

上川盆地は大雪山のすそ野にひらけた平らな土地で、川が運んだ土砂が積もってできました。まっすぐな道と碁盤の目の街区が引けたのも、この平らさのおかげです。一方で、盆地の出口は神居古潭の狭い峡谷しかありません。石狩川の水はここに集まり、ここから一気に下っていきます。

ここを見る:川の数と橋の数

旭川観光コンベンション協会などによると、市内の河川は約160本、橋は約760本。車で走っていると数分おきに橋を渡ります。「川のまち」というキャッチフレーズは、誇張ではなく数字の話です。

「旭川」という名前の、少し意外な成り立ち

有力説旭川という地名は、アイヌ語で忠別川を指した「チュㇷ゚ペッ(cup-pet)」に由来するとされます。チュㇷ゚は「太陽(月)」、ペッは「川」。これを「日の昇る川」と解釈し、漢字をあてて「旭川」としたというのが通説です。1890年(明治23年)、盆地に旭川村・神居村・永山村の三村が置かれたとき、初めて行政の地名になりました。

ところがこの解釈には異説があります。本来は「チュク・ペッ(cuk-pet=秋の川)」、つまり秋に鮭がのぼる川という意味だったのを、和人が聞き違えた、あるいは言葉遊びのように「太陽」と取ったのではないか、というもの。ほかに「チウ・ペッ(ciw-pet=波立つ川)」とする説もあります。

有力説

「日の昇る川」説

チュㇷ゚(太陽)+ペッ(川)。旭川市も紹介する、もっとも広く知られた説明。美しい地名になったのはこの解釈のおかげ。

異説

「秋の川(鮭の川)」説ほか

チュク(秋)+ペッ(川)の聞き違いとする見方。忠別川が鮭ののぼる川だったことを考えると、生活の実感に近い名前ともいえる。

どちらにしても、町の名前の中心にいるのは「忠別川」です。「忠別」はチュㇷ゚ペッに音で漢字をあてたもの、「旭川」は意味で漢字をあてたもの。同じ川から、音訳と意訳の二つの名前が生まれたわけです。

旭橋 ― 兵隊が渡った、町のシンボル

史実石狩川に架かる旭橋は、旭川の顔といえる橋です。最初の旭橋は1904年(明治37年)に架けられた長さ104メートルの橋でしたが、交通量の増加に合わせて架け替えられ、現在の鋼アーチ橋は1932年(昭和7年)に完成しました。北海道帝国大学の吉町太郎一が設計指導にあたったとされます。

この橋が旭川の人にとって特別なのは、ただ美しいからではありません。旭橋は市街地と、石狩川の北側にあった第七師団とを結ぶ道の途中にありました。戦時中、出征する兵士たちはこの橋を渡って戦地へ向かい、橋には旭日章の飾りが掲げられていたといいます。戦後、橋は「軍都の門」から「平和の町のシンボル」へと意味を変えていきました。

1932現在の旭橋が完成した年
2002土木学会選奨土木遺産に選ばれる
2004北海道遺産に選ばれる
石狩川に架かる旭橋のアーチ
旭橋本町〜常盤
石狩川と忠別川の合流点付近
川の合流点市街地近く

バタフライエフェクト:川が多すぎた町

川と橋が多いということは、洪水と橋の架け替えに悩まされ続けたということでもあります。牛朱別川はかつて市街地の中を流れていましたが、昭和初期に流路を付け替える大工事が行われ、そのあとにできた土地が現在の中心部の一部になりました。川を動かして町をつくる――旭川の地図は、人と川の綱引きの結果でもあるのです。

地元の人に聞いてみたい小ネタ

  • 有力説常盤公園の千鳥ヶ池は、付け替え前の牛朱別川の名残とされます。公園を歩くと、かつての川筋を想像できます。
  • 史実市内では夏、河川敷を使ったイベントやバーベキューが盛んで、川は「越えるもの」であると同時に「集まる場所」でもあります。
  • 有力説忠別川の水は大雪山の雪どけ水。旭川の酒づくりや豆腐づくりの水の良さは、この川とその伏流水に支えられています。

主な参考資料:旭川市「旭川市の概要・地名の由来」/旭川観光コンベンション協会(ATCA)「川のまち旭川」/北海道遺産構想推進協議会「旭橋」/土木学会 選奨土木遺産「旭橋」

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