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04 — KAMUY AND THE PEOPLE
上川アイヌとカムイの地
和人が来るずっと前から、石狩川の上流には上川アイヌの人々の暮らしがありました。土地を守るために東京まで出向いた人々、19歳で言葉を未来へ遺した少女、そして鉄道を通した測量士。旭川には、教科書ではあまり語られない物語がいくつもあります。
ラベルの意味:史実記録で裏づけ 有力説多くの研究・資料が支持 伝承言い伝え 都市伝説噂・地元の語りぐさ
石狩川上流の人々
上川盆地の川沿いには、上川アイヌの人々のコタン(集落)が点在していました。秋にのぼる鮭、山の鹿、川辺の植物。人々は自然のあらゆるものにカムイ(神)が宿ると考え、感謝と祈りの儀礼とともに暮らしてきました。
史実旭川市などが申請した日本遺産「カムイと共に生きる上川アイヌ ~大雪山のふところに伝承される神々の世界~」は、こうした世界観を伝える物語として認定されています。神居古潭や嵐山、大雪山の山々は、その舞台です。
近文の土地を守った人々
明治に入ると、上川のアイヌの人々は政府の方針で近文(ちかぶみ)の一角に集められ、「給与予定地」として土地が割り当てられました。ところが、第七師団の旭川移駐が決まると、その土地に目をつける人々が現れます。
史実1899年(明治32年)ごろ、師団の建設工事に関わる大倉喜八郎らが近文の土地の払い下げを求め、アイヌの人々を別の土地へ移す話が進められました。本人たちに内容を十分知らせないまま移転に同意させるような請願が出されたともいわれます。
ガイアの夜明け的瞬間:東京への陳情
これに対し、天川恵三郎らアイヌの代表は1900年(明治33年)5月、東京へ向かいます。有力者の大隈重信らに窮状を訴えた結果、移転の命令は撤回されました。自分たちの土地を、自分たちの声で守った出来事として、今も語り継がれています。ただし、その後も土地をめぐる問題は長く続きました。
知里幸恵 ― 19歳が遺した『アイヌ神謡集』
史実知里幸恵は1903年(明治36年)、登別に生まれました。1909年、6歳のときに近文に住む伯母金成マツのもとへ移り、祖母モナシノウクからカムイユカㇻ(神謡)を聞いて育ちます。
15歳のとき、アイヌ語研究者の金田一京助が近文を訪れ、幸恵の才能に目をとめます。幸恵はノートにアイヌ語をローマ字で書き起こし、日本語訳をつける作業を続けました。1922年(大正11年)5月に上京し、金田一の家で原稿を仕上げますが、持病の心臓病が悪化。9月18日、最終校正を終えたその日の夜に、19歳で亡くなりました。
『アイヌ神謡集』は翌1923年8月10日に刊行。文字を持たなかったアイヌ語の物語を、アイヌ自身が書き記した最初の本の一つとなりました。
その序文は、失われつつある自分たちの言葉と世界への思いを綴った名文として知られています。現在も岩波文庫で読むことができます(関連書籍)。
川村カ子ト ― 天竜の峡谷に鉄道を通した測量士
史実川村カ子ト(カネト)(1893〜1977)は近文出身の測量技師です。北海道の鉄道測量で腕を磨き、やがて愛知・静岡・長野の県境、天竜川沿いの険しい峡谷に鉄道を通す三信鉄道(現在のJR飯田線の一部、天竜峡〜三河川合間)の測量を任されました。
断崖が続く現場で、地元の測量士たちがさじを投げた区間を、カ子トの率いる測量隊が切り開いたといわれます。アイヌであることで差別も受けながら、仕事ぶりで信頼を勝ち取っていきました。路線は1937年(昭和12年)に全通しています。
ここを見る:川村カ子トアイヌ記念館
北門町にある川村カ子トアイヌ記念館は、カ子トの父イタキシロマが始めた資料館を起源とする、日本でも古い歴史をもつアイヌ資料館のひとつ。生活用具や衣装、チセ(家屋)などを通じて、上川アイヌの文化にふれることができます。


いまに続く文化
旭川では、アイヌ文化を伝える儀式や祭りが今も続く。秋には神居古潭で「こたんまつり」が開かれ、伝統の踊りや儀礼が行われる。
主な参考資料:文化庁 日本遺産ポータル「カムイと共に生きる上川アイヌ」/知里幸恵 銀のしずく記念館/川村カ子トアイヌ記念館/旭川市「旭川市史」