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01 — THE CAPITAL THAT NEVER WAS
幻の「北京」
明治の半ば、北海道の都を内陸の上川盆地に置き、天皇の離宮を建てる――そんな計画が、政府の決定にまでこぎつけました。都は来ませんでした。けれど、その夢の跡は今も旭川の地図と地名に残っています。
ラベルの意味:史実記録で裏づけ 有力説多くの研究・資料が支持 伝承言い伝え 都市伝説噂・地元の語りぐさ
「北京(ほっけい)」という構想
史実1882年(明治15年)、のちに初代北海道庁長官となる岩村通俊は、北海道の中心を内陸の上川に置くべきだと唱えました。札幌を「南京」、上川を「北京」とし、北の守りと開拓の要とする。ここでいう北京は中国の都ではなく、文字どおり「北の京(みやこ)」です。
1885年(明治18年)、岩村と、屯田兵を率いた永山武四郎らは、まだ道もない上川盆地に分け入り、近文山(嵐山)の上から盆地を見渡したと伝えられます。広い平地、集まる川、四方を囲む山。港から遠く、外国の艦砲も届かない。軍事と開拓の両面から、ここは理想的な「奥座敷」に見えたのでしょう。
ここを見る:嵐山からの眺め
市の西にある嵐山(近文山)の展望台からは、上川盆地と市街地、晴れた日には大雪山まで一望できます。明治の視察団が見た「都の候補地」を、同じ高さから確かめられる場所です。
都は「離宮」になった
史実北海道庁が求めたのは「北京」、つまり都そのものでした。しかし中央政府はそこまでは踏み込まず、1889年(明治22年)、上川に「離宮」を置くことを決めます。天皇が行幸したときに滞在する宮殿です。予定地に定められたのは、忠別川の南、現在の神楽・神楽岡一帯でした。その広さは約10,500ヘクタールにおよびました。
予定地は保護され、周囲では道路や市街地の区画が進められました。旭川の中心部が、札幌と同じように整然とした碁盤の目になっているのは、「都にふさわしい町」を前提に計画された名残だとも考えられています。
なぜ実現しなかったのか
有力説離宮が建たなかった理由を一つに絞ることはできませんが、よく挙げられるのは次のような事情です。
- 日清・日露戦争へと向かう時代で、国の予算は軍備に回された。
- 北海道の行政・経済の中心として、港に近い札幌の地位が固まっていった。
- 上川には離宮の代わりに第七師団が置かれ、「北の守り」の役目は軍が担うことになった。
史実1911年(明治44年)には皇太子(のちの大正天皇)が離宮予定地を訪れていますが、宮殿の建設には至りませんでした。やがて予定地は解除され、その一角の神楽岡には1924年(大正13年)、上川神社が移ってきます。都の代わりに、町の守り神が丘に鎮まったわけです。


「旭川は北海道の首都になるはずだった」
地元でよく聞く言い方。気持ちはわかるが、政府が正式に決めたのは「首都」でも「道都」でもなく「離宮」。
「離宮の予定地が決まっていた」
こちらは記録に残る事実。道庁の「北京」構想が、政府の段階で「離宮」に縮められた、というのが正確なところ。
バタフライエフェクト:夢の跡に師団が来た
「内陸に拠点を」という発想そのものは消えませんでした。都は来なかったものの、同じ理由で選ばれたのが第七師団の移駐です。離宮の夢 → 師団の町 → 軍都旭川。北京構想がなければ、旭川が北海道第二の都市になる道筋は、ずいぶん違ったものになっていたかもしれません。
主な参考資料:旭川市「旭川市史」/北海道立図書館・北海道立文書館の関連資料/上川神社「由緒」