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09 — ISLANDS
宮古・八重山・与那国と台湾
沖縄本島から南西へ300キロほど進むと、宮古の島々、さらに八重山の島々が続きます。言葉も祭りも本島とは違い、そして台湾がすぐそこにあります。与那国島から台湾までは約111キロ。東京よりずっと近い隣人との物語です。
ラベルの意味:史実記録で裏づけ 有力説多くの研究・資料が支持 伝承言い伝え 都市伝説噂・地元の語りぐさ
「沖縄」はひとつではない
沖縄県の島々は、大きく沖縄諸島・宮古諸島・八重山諸島などに分かれます。島ごとに言葉が大きく違い、本島の言葉と宮古の言葉、八重山の言葉、与那国の言葉では、お互いに通じないほどです。ユネスコは2009年、これらをそれぞれ消滅の危機にある言語として挙げています。
史実宮古と八重山は、15世紀の末から16世紀の初めにかけて、琉球王国の支配下に入りました。石垣島の英雄として語られるオヤケアカハチは、1500年に王府の軍と戦って敗れた人物です。王府側の記録では「反乱者」とされますが、石垣島では島を守ろうとした英雄として、今も像が立てられています。
人頭税 ― 260年あまり続いた重い税
史実1609年の薩摩侵攻のあと、薩摩へ納める年貢の負担は王国の各地にのしかかりました。宮古と八重山では、1637年ごろから、土地の広さではなく人の数に応じて税をかける人頭税が課されます。この税は、沖縄県になったあとも続き、廃止されたのは1903年のことでした。
「この石より背が高くなったら税を納める」
宮古島市平良に残る高さ140cmあまりの石柱は「人頭税石(ぶばかり石)」と呼ばれ、この石の高さを超えた者に税がかけられた、という話が広く知られている。
実際は年齢で決まった
記録によると、人頭税は数え年で15歳から50歳までの男女にかけられた。石柱の本来の役割は、屋敷の境界や方角の目印などだった、という見方もある。
与那国 ― 台湾が見える島
史実日本の最西端、与那国島から台湾までは約111キロ。空気が澄んだ日には、島の西の端・西崎(いりざき)から、水平線の向こうに台湾の山並みが見えることがあります(見えるのは年に数回ほどといわれます)。
史実1895年から1945年まで、台湾は日本の統治下にありました。この時代、八重山や与那国の人々にとって、台湾は「国内」の最も近い都会でした。仕事や進学、買い物のために台湾へ渡る人は多く、台北や基隆には沖縄から来た人々が暮らしていました。
有力説戦後、台湾と沖縄のあいだに国境が引かれると、物資の乏しさを背景に、与那国を中継地とした密貿易が盛んになります。1940年代の後半、島の港は台湾や本島から来た人々と品物であふれ、人口が一時は大きくふくれあがったといわれます。
ここを見る:西崎の「日本最西端の碑」
西崎の灯台のそばには「日本国最西端之地」の碑があります。日本で最後に夕日が沈む場所としても知られています。台湾の方角を見て、その近さを実感してみてください。
石垣島のパインを育てた台湾の人々
史実日本統治時代の1930年代、台湾の人々が石垣島へ集団で移り住みました。1935年、林発(りんぱつ)らに率いられた台湾の農業者たちが、石垣島の名蔵(なぐら)などでパイナップルの栽培を始めます。1938年には缶詰工場もつくられ、パインは八重山を代表する産業へと育っていきました。
有力説田畑を耕す水牛も、このころ台湾から来た人々が持ち込んだといわれます。竹富島で観光客を乗せて歩く水牛車の風景も、この歴史とつながっているといわれます。
戦後、台湾から来た人々の多くは石垣島にとどまり、日本の国籍を得て暮らしてきました。石垣島では今も、台湾系の人々による土地公祭が、旧暦の8月に行われています。名蔵には、台湾からの入植者の功績をたたえる記念碑も建てられています。




1771年の大津波
1771年、八重山と宮古を大きな津波が襲いました(明和の大津波)。八重山だけで約9,000人、人口の3分の1ほどが亡くなったとされます。石垣島の海岸には、このとき打ち上げられたと考えられる巨大な岩(津波石)が今も残っています。
主な参考資料:石垣市「石垣市史」/宮古島市「人頭税石」/与那国町/沖縄県立図書館「台湾と沖縄」関連資料