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04 — THE BATTLE OF OKINAWA

沖縄戦

1945年春、沖縄は日米両軍が激しくぶつかる地上戦の場になりました。戦場になったのは、人々が暮らす村や町そのものでした。3か月あまりの戦いで何が起き、どれだけの命が失われたのか。記録に沿って振り返ります。

ラベルの意味:史実記録で裏づけ 有力説多くの研究・資料が支持 伝承言い伝え 都市伝説噂・地元の語りぐさ

戦いの前に

史実1944年、日本軍は沖縄に第32軍を置き、各地に飛行場や陣地を造りはじめました。住民も工事に動員されます。同じ年の8月22日、本土や台湾へ子どもたちを疎開させるため那覇を出た対馬丸が、アメリカの潜水艦に沈められ、多くの学童を含む1,400人以上が亡くなりました。

史実10月10日には、アメリカ軍の艦載機による大規模な空襲があり、那覇の市街地のおよそ9割が焼けました(十・十空襲)。

1945年3月26日から6月23日まで

史実1945年3月26日、アメリカ軍は那覇の西に浮かぶ慶良間諸島に上陸しました。ここでは、追いつめられた住民が家族や親しい人どうしで命を絶つ、「集団自決(強制集団死)」と呼ばれる痛ましい出来事が起きています。

史実4月1日、アメリカ軍は沖縄本島中部の西海岸、読谷・北谷の海岸に上陸します。投入されたアメリカ軍は延べ50万人を超え、海は艦船で埋めつくされました。日本軍は首里の地下に司令部を置き、本島中南部で持久戦を続けました。

史実5月末、首里が危うくなると、日本軍は司令部を放棄して本島の南端、摩文仁(まぶに)へ退きました。そこには、戦火を逃れてきた多くの住民がいました。軍と住民が狭い地域に入りまじり、住民の犠牲はこの時期にいっそう増えました。6月23日ごろ、司令官の自決によって日本軍の組織的な戦闘は終わります。この日が、沖縄の「慰霊の日」です。

約20万人沖縄戦の戦没者(日米両軍・住民を合わせた数)
122,228人このうち沖縄県出身者(一般住民約9万4千人を含む)
20,195人アメリカ軍の戦没者

数字は沖縄県の資料によるもので、日本側の戦没者は188,136人(沖縄県出身の軍人・軍属と一般住民122,228人、県外出身の日本兵65,908人)とされています。住民の犠牲者については、正確な数は分かっていません。

ガマ ― 暗闇の中の選択

史実沖縄には、石灰岩の大地にできたガマと呼ばれる自然の洞窟がたくさんあります。住民はガマに身を隠し、日本軍も陣地や病院として使いました。

史実アメリカ軍が最初に上陸した読谷村には、よく比べて語られる二つのガマがあります。チビチリガマでは、避難していた住民のうち80人あまりが「集団自決」で亡くなりました。一方、近くのシムクガマでは、ハワイへの移民から帰ってきて英語が話せた二人の住民が、アメリカ兵と話し合い、約1,000人の住民が助かったと伝えられています。

動員された学生たち

史実沖縄戦では、中学校や女学校などの生徒も戦場に動員されました。男子生徒は鉄血勤皇隊や通信隊として、女子生徒は看護要員として、陸軍病院などに配置されます。動員された生徒は2,000人を超え、その多くが戦場で命を落としました。

史実沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校の生徒と教師240人は、看護要員として南風原(はえばる)の陸軍病院に動員されました。のちにひめゆり学徒隊と呼ばれる人々です。このうち136人が亡くなりました。糸満市のひめゆりの塔のそばには、生存者の証言を伝えるひめゆり平和祈念資料館があります。

ここを見る:海軍司令部壕に残る電文

豊見城市の旧海軍司令部壕は、日本海軍の司令部が置かれた地下壕です。司令官の大田実は自決の前、1945年6月6日に、住民の献身と苦難を伝える電報を海軍次官あてに送りました。その結びは「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」。壕の中の司令官室の壁には、手りゅう弾の破片の跡が今も残っています。

平和の礎

史実1995年、沖縄戦から50年を記念して、糸満市摩文仁の平和祈念公園に平和の礎(いしじ)が建てられました。黒い御影石の刻銘碑には、沖縄戦などで亡くなった人々の名前が、国籍や、軍人か住民かを問わず刻まれています。アメリカ、イギリス、韓国、北朝鮮、台湾の人々の名前もあります。刻まれた名前は24万を超え、今も毎年、新たに判明した名前が加えられています。

毎年6月23日には、ここで沖縄全戦没者追悼式が開かれ、県内の子どもがつくった平和の詩が朗読されます。正午には、県内の多くの場所で黙とうがささげられます。

平和の礎
平和の礎糸満市摩文仁
ひめゆりの塔のそば、沖縄陸軍病院第三外科壕跡
第三外科壕跡(ひめゆりの塔)糸満市

「命どぅ宝(ぬちどぅたから)」

沖縄でよく語られる言葉です。命こそが宝である、という意味です。戦場となった島で生き延びた人々の証言は、資料館や語り部の活動を通じて伝えられてきました。戦争を体験した世代が少なくなるなか、記憶をどう受け継ぐかは、沖縄にとって今も大切な問いです。戦後の沖縄の歩みは、アメリカ世と本土復帰の部屋へ。

主な参考資料:沖縄県「沖縄戦の概要」「平和の礎」/沖縄県平和祈念資料館/ひめゆり平和祈念資料館/対馬丸記念館/読谷村史/海軍壕公園

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