トップ / 両属の王国と琉球処分

03 — TURNING POINT

両属の王国と琉球処分

琉球王国は、中国の皇帝に王として認められながら、日本の薩摩にも従う国でした。この「両属」の状態は260年以上続き、明治のはじめに終わりを迎えます。その引き金の一つは、台湾で起きた事件でした。

ラベルの意味:史実記録で裏づけ 有力説多くの研究・資料が支持 伝承言い伝え 都市伝説噂・地元の語りぐさ

1609年、薩摩の侵攻

史実1609年、薩摩の島津氏は徳川家康の許しを得て、約3,000の兵で琉球に攻め込みました。戦いに慣れた薩摩軍の前に王国は敗れ、国王・尚寧(しょうねい)は鹿児島へ連れて行かれ、さらに駿府で家康に、江戸で将軍・秀忠に会うことになります。

史実この結果、奄美の島々は薩摩の直轄地となり、琉球は薩摩に年貢を納めることになりました。それでも王国はなくならず、中国への進貢も続けられます。薩摩にとっては、琉球を通じた中国との貿易が大きな利益になったからです。

「両属」という生き方

史実こうして琉球は、中国(明、のちに清)の冊封を受ける王国でありながら、実際には薩摩の支配を受けるという、二重の立場に置かれました。これを両属といいます。中国からの使者・冊封使が来ているあいだ、薩摩の役人は目立たないようにし、日本とのつながりを中国に見せないように気を配ったといわれます。

史実反対に、琉球の使節が将軍の代替わりなどに江戸へ向かう「江戸上り」では、薩摩の指示で中国風の衣装を身につけ、中国風の音楽を奏でながら行列しました。「異国の王国を従えている」ことを見せるためでした。江戸上りは、1634年から1850年までに18回行われています。

1609薩摩の琉球侵攻
18回江戸上り(1634〜1850年)
1879沖縄県の設置

台湾で起きた事件

史実1871年、首里に年貢を納めた帰りの宮古島の船が、嵐にあって台湾の南東部、今の屏東県満州郷のあたりに流れ着きました。乗っていた69人のうち3人は溺れ、上陸した66人のうち54人が、地元の先住民の集落で殺害されます。生き残った12人は、漢人の住民に助けられ、福州を経て琉球に帰りました。

史実明治政府は、この事件を「日本国民が殺された」ものとして扱い、1874年、西郷従道の率いる軍を台湾に送りました(台湾出兵、台湾では「牡丹社事件」と呼ばれます)。交渉の結果、清は日本の出兵を「民を守るための義挙」と認め、賠償金を支払うことに同意します。

この取り決めは、琉球の人々は日本の国民であるという日本側の主張を後押しすることになりました。宮古の船乗りたちの遭難が、王国の運命を大きく動かしたのです。

ここを見る:台湾と那覇に残る墓

亡くなった54人の遺骨は、台湾の屏東県車城郷に葬られ、「大日本琉球藩民五十四名墓」と刻まれた墓が今も残っています。那覇の波上宮のそばにある護国寺にも、この人々を悼む墓碑があります。

1879年、王国の終わり

史実明治政府は1872年、琉球王国を琉球藩とし、国王・尚泰(しょうたい)を藩王としました。1875年には清への進貢をやめるよう命じますが、琉球の側は中国との関係を続けたいと願い、なかなか応じません。

史実1879年3月、政府は処分官の松田道之を、警官や兵士とともに首里へ送り、首里城の明け渡しを命じました。4月に沖縄県の設置が布告され、尚泰は東京へ移されます。これら一連の出来事を琉球処分と呼びます。

史実王国の士族のなかには、清に渡って助けを求める人々もいました(脱清人)。その一人、林世功(りんせいこう)は1880年、北京で抗議のために自ら命を絶っています。

知られざる「分島案」

1880年、日本と清のあいだで、琉球をめぐる話し合いが行われました。日本側が示したのは、宮古・八重山を清に渡すかわりに、清での通商の権利を得るという案でした(分島・改約案)。交渉はいったんまとまりかけたものの、清が調印を見送ったため、実現しませんでした。もし調印されていたら、宮古や八重山は、まったく違う歴史を歩んでいたかもしれません。

主な参考資料:沖縄県公文書館/宮古島市史/那覇市歴史博物館/外務省『日本外交文書』

広告