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01 — SHURI CASTLE
首里城と琉球王国
那覇の町を見下ろす丘の上に、赤い王城がありました。450年続いた琉球王国の政治と祭祀と外交の中心、首里城です。この城は、記録に残るだけで5回焼け、そのたびに建て直されてきました。
ラベルの意味:史実記録で裏づけ 有力説多くの研究・資料が支持 伝承言い伝え 都市伝説噂・地元の語りぐさ
450年続いた王国の城
史実1429年に尚巴志が三山を統一してから、1879年に沖縄県が置かれるまで、琉球王国はおよそ450年続きました。途中、1470年に尚円(しょうえん)が王位につき、王家が入れ替わります。それまでを第一尚氏、以後を第二尚氏と呼びます。第二尚氏の王家は、約400年、19代にわたって続きました。
首里城は、王の住まいであると同時に、国の政治を行う役所であり、神に祈る聖地であり、中国や日本からの使者を迎える外交の舞台でもありました。城内には「京の内(きょうのうち)」と呼ばれる聖域があり、王府の最高位の神女・聞得大君(きこえおおきみ)を中心とした祭祀が行われていました(祈りの部屋)。
中国と日本がまじりあう正殿
史実首里城の正殿は、中国の宮殿の影響を受けつつ、日本の建築の技法も取り入れた、琉球独自の建物です。正面の屋根の唐破風(からはふ)、柱や壁を彩る朱色、あちこちに描かれた龍。正殿前の広場「御庭(うなー)」は、中国皇帝の使者・冊封使(さっぽうし)を迎える儀式などに使われました。
伝承正殿が東ではなく西を向いているのは、海の向こうの中国を意識したためだという説がよく知られています。ただし、地形や城内の配置による、という見方もあります。
5回焼けて、5回よみがえろうとする城
史実首里城の正殿は、記録に残るだけで5回焼失しています。
史実沖縄戦で跡形もなくなった首里城の跡地には、戦後、琉球大学のキャンパスが置かれました。大学の移転後、復元の計画が進み、1992年に正殿が復元されます。この復元の際には、昭和初期に国宝指定のために描かれた図面や古写真、そして王府の記録が大きな手がかりになりました。
2019年の焼失後も、再建はすぐに始まりました。今回は、木材や赤瓦、漆塗りなどの技術を次の世代へ伝えることも目的の一つとされ、工事の様子が一般に公開されてきました。国の発表では、正殿は2026年11月23日から一般公開の予定です(2026年9月時点)。
ここを見る:石垣は「本物」
焼けて建て直された建物と違い、城壁の石垣には王国時代の石積みがかなり残っています。正殿の下の地面に残された遺構も、世界遺産として登録されている「本物」の部分です。世界遺産になったのは建物ではなく、この地下の遺構なのです。
守礼門と二千円札
史実首里城の入口近くに立つ守礼門は、16世紀に創建された門です。掲げられた扁額の「守禮之邦(しゅれいのくに)」は、「琉球は礼節を重んじる国である」という意味です。沖縄戦で失われたあと、1958年に再建され、戦後の沖縄を代表する観光名所になりました。2000年には、九州・沖縄サミットの開催にあわせて発行された二千円札の図柄にもなっています。


世界遺産は「グスクと関連遺産」の9か所
2000年に登録された世界遺産「琉球王国のグスク及び関連遺産群」は、首里城跡だけではありません。今帰仁城跡・座喜味城跡・勝連城跡・中城城跡の4つのグスク、王家の墓・玉陵(たまうどぅん)、王家の庭園・識名園、園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)、そして斎場御嶽(せーふぁうたき)の、合わせて9か所です。城と墓と庭と祈りの場がそろって、一つの王国の姿を伝えています。
主な参考資料:首里城公園(沖縄美ら島財団)/内閣府沖縄総合事務局 国営沖縄記念公園事務所「首里城正殿の復元」/沖縄県「琉球王国のグスク及び関連遺産群」