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05 — AMERICAN ERA
アメリカ世と本土復帰
沖縄戦のあと、沖縄は27年にわたってアメリカの統治下に置かれました。通貨はドル、車は右側通行、本土へ行くにはパスポートのような証明書が必要でした。沖縄の人々が「アメリカ世(ユー)」と呼ぶ時代と、そこから日本に戻るまでの道のりをたどります。
ラベルの意味:史実記録で裏づけ 有力説多くの研究・資料が支持 伝承言い伝え 都市伝説噂・地元の語りぐさ
収容所から始まった戦後
史実戦いが終わったとき、生き残った住民の多くはアメリカ軍が設けた収容所で暮らしていました。故郷の土地の多くは、そのまま基地として囲い込まれていきます。沖縄の戦後は、帰る家も畑もない状態から始まりました。
史実1952年4月28日、サンフランシスコ平和条約が発効して日本は独立を回復しましたが、沖縄・奄美・小笠原はアメリカの統治下に残されました。この日は、沖縄では「屈辱の日」とも呼ばれてきました。同じ年、住民の政府として琉球政府がつくられますが、その上にはアメリカの統治機関(のちの琉球列島米国民政府)があり、最終的な決定権はアメリカ側にありました。
ドルで買い物をした時代
史実戦後しばらく、沖縄ではB円と呼ばれるアメリカ軍の軍票が使われ、1958年からはアメリカドルが通貨になりました。スーパーの値札はセント単位、給料もドルで支払われました。本土へ渡るには、琉球列島米国民政府が発行する渡航証明書が必要でした。
史実1950年代には、アメリカ軍が住民の土地を強制的に取り上げて基地を広げていきました。「銃剣とブルドーザー」と呼ばれたこのやり方に対し、1956年には島全体をあげた抗議運動(島ぐるみ闘争)が起こります。
コザの街
史実嘉手納基地のゲートの前に広がったコザの街(今の沖縄市)は、米兵相手の飲食店やバーが立ち並ぶ、基地の町として発展しました。米軍の衛生基準などを満たした店には「Aサイン」の許可証が与えられ、ドルが飛び交う独特の文化が生まれます。ベトナム戦争の時代には、戦地へ向かう兵士たちで街はあふれ、ここから沖縄のロックも育ちました。
史実1970年12月20日の未明、米兵が起こした交通事故の処理をきっかけに、集まった住民の怒りが爆発し、アメリカ人の車両80台あまりが焼かれました(コザ騒動、コザ暴動とも)。米兵による事件や事故が裁かれないことへの、長年の不満が背景にありました。


1972年5月15日
史実住民の間では、日本への復帰を求める運動が広がっていきました。1972年5月15日、沖縄の施政権はアメリカから日本に返還され、沖縄県が再び誕生します。通貨は円に切り替わり、交換レートは1ドル=305円でした。
史実ただ、復帰後もアメリカ軍の基地の多くは残りました。沖縄県によると、国土面積の約0.6%にすぎない沖縄県に、在日アメリカ軍の専用施設の面積の約70%が集中しています。基地をめぐる問題は、今も沖縄の大きな課題です。
1978年7月30日、「ナナサンマル」
史実アメリカ統治のもとで、沖縄の車は右側通行でした。復帰から6年後の1978年7月30日午前6時、県内の車の通行が一斉に左側通行へ切り替えられます。日付から「730(ナナサンマル)」と呼ばれるこの変更のために、前日の夜から道路標識や信号が付け替えられ、乗り降り口が右側にあるバスは大量に買い替えられました。
ここを見る:石垣島の730記念碑
石垣市の中心部の交差点には、交通方法の変更を記念した「730記念碑」が立っています。地元ではこの交差点そのものが「730交差点」と呼ばれています。
バタフライエフェクト:アメリカ世が残した味
アメリカ軍の食料として持ち込まれたランチョンミートの缶詰は、戦後の沖縄の家庭に広まり、「ポーク」として定着しました。1963年には日本で最初のA&Wの店が沖縄に開店し、1984年には金武町でタコライスが生まれます。アメリカ世は、沖縄の食卓の姿も変えたのです(食の部屋)。
主な参考資料:沖縄県公文書館/沖縄県「沖縄の米軍基地」/沖縄市「コザの歴史」/沖縄県警察「730」関連資料