トップ ⼎ 龍馬、脱藩の道

02 — 脱藩

命がけで藩を捨てた、
27歳の一歩。

1862年3月24日夜、坂本龍馬は沢村惣之丞とともに高知城下を離れました。当時、藩を無断で出る「脱藩」は原則死罪。山を越えて伊予国へ抜けるこの道の先に、龍馬は何を見ていたのでしょうか。

韮ヶ峠に立つ坂本龍馬像と脱藩の碑
韮ヶ峠の龍馬像

高知城下から伊予国境へ、二日間の道

ルートは高知城下→佐川→梼原(ゆすはら)→韮ヶ峠(にらがとうげ)→伊予国とされます。現在も梼原町には「維新の道」として整備されたハイキングコースが残り、地元では龍馬が実際に歩いた道として大切に保存されています。発足から韮ヶ峠を越えるまでは一日ではいかず、途中で一泊したと伝わります。姉・乙女へ宛てた手紙には、この時期の心情が率直につつられています。

維新の道と書かれた脱藩の道の標識と歩く人々
維新の道梼原町内
韮ヶ峠の龍馬像
韮ヶ峠高知・愛媛県境
脱藩の重さ。 江戸時代、藩は一つの国家に近い存在でした。主向の許可なく藩境を越える行為は主家への裏切りとみなされ、残された家族にも遷に及ぶ可能性がありました。龍馬の脱藩は後に恩赦によって罪は許されますが、実行の時点では家族も巻き込む覚悟の行動だったことは忘れられがちです。

暗殺目的で訪ねて、弟子になったという逸話

地元では有名な話ですが、龍馬は脱藩後、開国論者であった勝海舟を暗殺しようとして訪ねたものの、世界情勢や海軍の必要性を説く勝の話に引きこまれ、その場で弟子入りしたというエピソードが伝わっています。出典は後年の回想録の段階で記録されたものが中心で、発言の細部には諸説ありますが、この出会いが、後の亀山社中結成へとつながっていくのは確かです。

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