トップ ⼎ 関ヶ原と土佐
00 — 起源
1600年の関ヶ原で西軍についた長宗我部盛親は土佐一国を没収され、代わって入ってきたのが山内一豊でした。この入れ替わりが、幕末まで続く土佐特有の身分構造——「上士」と「郷士」の対立を生むことになります。
長宗我部氏は戦国期、四国をほぼ制圧した大名でした。その軍事力を支えたのが「一領具足(いちりょうぐそく)」と呼ばれる兵農一致の兵士制度です。普段は百姓として畑を耕し、一旦事があれば自分で鎧や刀など一そろいの武具を担いで駆けつけるという、小国でも動員力を確保できる合理的な仕組みでした。しかし西軍方についたことで改易となり、この一領具足たちの多くが、新領主・山内家の下で「郷士」という下級武士身分に編入されていきます。
「郷士は上士とすれ違うと道を譲り土下座をしなければならなかった」「雨具の色や傘の形まで別だった」——高知では今も広く語られる話ですが、近年の研究では制度上の待遇差(住居地や就任できる役職、転業の制限など)は確かに存在した一方で、日常の振る舞いまでを細かく規定した法令は確認されておらず、後世の講談や小説で誇張された部分も少なくないとされます。とはいえ、経済力や学問で優れていても上士にはなれないという制度的な天井が、郷士層の中に深い不満を蓄積させたこと自体は、多くの歴史家が一致して認めるところです。
重要なのは、この対立構造が幕末になって意外な形で爆発することです。郷士の家に生まれた坂本龍馬や、さらに下層の「地下浪人」出身の岩崎弥太郎のように、既存の秩序の外側にいた人々が、既存の秩序そのものを壊す側に回ったというのは、そもそも失うものが少ない立場だったからこそできたとも言えます。同じ構造から、明治後には自由民権運動を担う人々も生まれていきます。詳しくは「幕末土佐の志士」や「自由民権運動」のページで。