トップ ⼎ 幕末土佐の志士

01 — 人物

郷士の子と、藩主が、
ほぼ同時に歴史を動かした。

人口三十万余りの一藩から、薩長同盟を仲介した龍馬、大政奉還の立役者ともいわれる中岡慎太郎、そして藩主山内容堂自身も、それぞれの立場から時代の転換に関わりました。

中岡慎太郎の銅像
中岡慎太郎像
1835–1867

坂本 龍馬

土佐藩郷士|亀山社中・海援隊の創設者

1862年に脱藩し、勝海舟に学んだ後、日本初の商社ともいわれる亀山社中(後の海援隊)を長崎で結成。薩長同盟の仲介や大政奉還の建白に関与したとされるが、本人自筆の史料が少なく、具体的な役割の大きさには今も研究者間で議論があります。 1867年、京都・近江屋で中岡慎太郎とともに襲撃され、命を落としました。

慎

中岡 慎太郎

1838–1867

土佐藩郷士|陸援隊局長

武市半平太の土佐勤王党に属し、後に長州との接近を推進。龍馬とは同郷の盟友でもあり、行動をともにすることも多かった間柄とされ、同じ夜、同じ場所で命を落としました。

半

武市 半平太

1829–1865

土佐勤王党盟主

剣術道場を開き、土佐勤王党を結成して一時は藩政を主導。しかし山内容堂の方針転換で弾圧され、切腹を命じられました。三度に分けて腹を切る「三文字腹」で自らを律したとされる逸話が残ります。

容

山内 容堂

1827–1872

土佐藩第15代藩主

佐幕・尊皇のどちらにも偏らない現実主義者で、大の酒好きから「鯨海酔侯」と自称した豪放さで知られました。大政奉還の建白を幕府に提出したのは容堂自身であり、龍馬らの構想が藩主の手で政治の舞台に乗ったとも言えます。

象

後藤 象二郎

1838–1897

土佐藩上士|後の伯爵

上士の要職だったが龍馬の構想に共鳴し、船中八策を容堂に取り次ぐ役割を果たしたとされます。上士と郷士が幕末で協力し得た珍しい例でもあります。

もう一つの見方。 土佐勤王党の中心は郷士でしたが、最終的に大政奉還を建白したのは上士・後藤象二郎と藩主・山内容堂でした。「下からの革命」だけでなく、身分を越えた協力関係が土佐の幕末を動かしたとも言えます。(関連:関ヶ原と土佐)
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