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01 — 足元から読む札幌
大通からすすきの、中島公園へ。市電に乗って南へ向かうと、道がわずかに上っていくのがわかります。札幌の都心は、豊平川が山から運んだ砂利が扇形に積もった「扇状地」の上につくられました。この地形を知ると、湧き水の池も、石造りの倉も、玉ねぎ畑も、一本の線でつながります。
扇状地とは
山あいを流れてきた川が平地に出ると、流れが急に弱まり、運んできた砂や砂利をばらまきます。これが長い年月をかけて扇形に広がったものが扇状地です。札幌の場合、豊平川が藻岩山の東側から平地に出るあたりを要(かなめ)に、札幌駅のあたりまで、ゆるやかに北へ傾いた扇が広がっています。
扇状地の地面は砂利が多く、水はけが抜群です。家を建てるにも道をつくるにも都合がよく、明治の開拓使がこの上に本府(首府)を置いたのは理にかなった選択でした。一方、扇の先より北側は、水が集まる低湿地。「サッポロ」の語源にまつわる二つの説——「乾いた川」と「葦原の川」——は、まさにこの扇の上と下の姿を言い表しているようにも見えます。
湧き水の線
扇状地に染み込んだ水は、地下を流れて扇の先端(扇端)で再び地表に湧き出します。アイヌ語でこうした湧き水の池をメムと呼びました。札幌では、ちょうど今の札幌駅の南西から北大にかけて、いくつものメムが並んでいたといわれます。
北海道大学植物園の池、北大構内を流れる小川、知事公館の庭、北区の偕楽園(明治天皇が休憩した清華亭が残る)……。地図の上でこれらを結ぶと、扇端に沿った一本の線が浮かび上がります。明治の人々が庭園や公館をこの線上に置いたのは、きれいな湧き水があったからでした。
都市化で地下水が減ると、メムは次々に枯れていきました。北大構内をかつて流れていたサクシュコトニ川もその一つ。2000年代に入って水を引き入れて再生され、今は学生や市民の憩いの場になっています。キャンパスを歩くときは、この小川が「扇端の記憶」だと思って眺めてみてください。
4万年前の置き土産

今から約4万年前、札幌の南にある支笏湖のあたりで巨大な噴火が起こりました。大量の火砕流が流れ下り、その一部は現在の札幌市南区にまで達します。高温の火山灰が厚く積もって冷え固まったものが、札幌軟石(溶結凝灰岩)です。
やわらかく加工しやすく、しかも火に強い。明治初期、お雇い外国人がこの石に目をつけ、開拓使は採石を奨励しました。産地の地名は、そのものずばり「石山」。札幌軟石は倉や店舗、教会、役所にまで使われ、2000年代の調査では市内に約300棟の軟石建築が確認されています。大通公園の西端に建つ札幌市資料館(旧札幌控訴院)も、この石でできています。

南区の石山・藤野あたりを車で走ると、あちこちに古い軟石の倉が残っています。コンクリートブロックが普及してからは採掘は減り、今では採石業者はごくわずか。それでも、軟石でつくったパン窯や雑貨が人気を集めるなど、「4万年前の石」は形を変えて使われ続けています。
扇の外側
扇状地の先から北へ行くと、土地の様子は一変します。石狩平野の低地には、枯れた植物が分解されずに積み重なった泥炭地が広がっていました。水はけが悪く、地盤も軟らかい。明治の人々は排水路を掘り、土を入れ替えながら、少しずつ畑に変えていきました。
その努力の結果の一つが、東区で育てられてきた玉ねぎです。札幌農学校の時代にアメリカから持ち込まれた品種をもとに、この地で選抜が重ねられた「札幌黄」は、今では「幻の玉ねぎ」とも呼ばれる存在になりました。
扇状地をつくった豊平川は、たびたび洪水を起こす暴れ川でもありました。流れは時代ごとに向きを変え、札幌の北側には旧河道の跡がいくつも残っています。中島公園を流れる鴨々川は、豊平川から分かれた流れで、下流では創成川へとつながっていきます。都心を歩いていて水の流れに出会ったら、それはかつての扇状地の水の道の名残かもしれません。
歩いて確かめる
ブラタモリ気分で、地面の高さや水の気配に注目して歩いてみてください。
すすきの→中島公園→藻岩山方面へ。窓の外の道が、扇頂に向かってゆるく上っていく。
かつてメムが湧いていた場所。都心のど真ん中に、扇端の景色が残る。
一度は消え、再生された小川。キャンパスの中を北へ流れていく。
明治の庭園はなぜここに? 答えは「湧き水があったから」。
軟石の石切場跡がそのまま公園に。4万年前の火砕流の断面を間近に見られる。
大通西13丁目。軟石の外壁の玄関上には、目隠しをした法の女神テミスと、剣と天秤のレリーフ。
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