人に迫る

幕末と新選組

浪士の寄せ集めが、わずか数年で幕末最強の警察組織になった。刀傷、弾痕、再建された宿──血の匂いのする京都を歩く。

誠

人に迫る寄せ集めの浪士が、最強の警察になるまで

1863年、将軍・徳川家茂の上洛にあわせ、江戸で集められた浪士たち「浪士組」が京都へやってきた。発案者の清河八郎は、到着するなり「本当の目的は尊王攘夷だ」と言い出し、浪士組の大半を連れて江戸へ引き返してしまう。史実

このとき京都に残ったのが、多摩の剣術道場・試衛館の近藤勇、土方歳三、沖田総司らと、水戸出身の芹沢鴨の一派だった。彼らは会津藩の預かりとなり「壬生浪士組」を名乗る。その年の八月十八日の政変での働きが認められ、「新選組」の名を与えられた。史実

身分も出身もばらばらの若者たちが、わずか数年で、尊王攘夷派の志士たちが最も恐れる治安組織へと成長していく。京都は、そのすべての舞台だった。

謎を解く八木邸の鴨居に残る刀傷

壬生の八木邸。新選組最初の屯所で、芹沢鴨暗殺の現場
壬生の八木邸。新選組最初の屯所で、芹沢鴨暗殺の現場

壬生の郷士・八木源之丞の屋敷は、浪士組の宿所となり、新選組の最初の屯所になった。今も子孫の方が暮らしながら公開を続けており、見学できる。史実

1863年9月、この屋敷の奥座敷で、局長の一人・芹沢鴨が土方らに暗殺された。乱暴狼藉が目に余ったため、とも、会津藩の意向があった、とも言われる。有力説 座敷の鴨居には、そのときについたとされる刀傷が残り、見学者はガイドの説明を聞きながら実物を見ることができる。伝承

因果の連鎖池田屋事件 ── 一夜が歴史を早めた

池田屋事件の跡地。今は居酒屋になっている
池田屋事件の跡地。今は居酒屋になっている

1864年6月5日(旧暦)の夜。新選組は、三条小橋の旅籠・池田屋に尊王攘夷派の志士たちが集まっているのを突き止め、踏み込んだ。近藤勇ら数人が先に斬り込み、激しい斬り合いの末、多くの志士が討たれ、捕らえられた。史実

  1. 池田屋事件(1864年6月)新選組の名が一気に天下に轟く。
  2. 長州藩の激昂多くの仲間を失った長州藩は兵を率いて京都へ。
  3. 禁門の変(1864年7月)御所の周辺で激戦。長州は敗れ「朝敵」に。
  4. どんどん焼け戦火が燃え広がり、京都の町の大半、約3万戸近くが焼失した。史実

「池田屋事件がなければ明治維新は1年遅れた」とも、「逆に早まった」とも言われる。有力説 評価は分かれるが、一夜の斬り合いが長州を暴発させ、京都を再び焼け野原にしたことは確かだ。

謎を解く蛤御門の「弾痕」

門に残る弾痕とされる跡
門扉に残る穴

禁門の変の激戦地の一つが、京都御苑の西側にある蛤御門だ。門の柱や扉には、そのときの弾痕とされる跡が残り、今も指で触れられる高さにある。伝承

「蛤御門」という不思議な名前にも由来がある。本来は「新在家御門」といい、ふだんは閉ざされていた。ところが1788年の天明の大火のとき、初めて門が開かれたため、「焼けて口を開く蛤」にたとえられた──という話が伝わっている。伝承

蛤御門。禁門の変の激戦地
蛤御門。禁門の変の激戦地

人に迫る西本願寺に居座った新選組

隊士が増えて壬生が手狭になると、新選組は1865年、西本願寺の北集会所に屯所を移した。長州とつながりのあった西本願寺を監視する意味もあったとされる。有力説

寺にとってはたまったものではない。境内で大砲の訓練をしたり、隊士が乱暴を働いたりして、寺側は困り果てたと伝わる。伝承 結局、西本願寺が費用を負担して新しい屯所(不動堂村屯所)を建て、新選組に出て行ってもらったという。有力説 境内に今も残る太鼓楼は、新選組が屯所として使った時代を知る建物だ。

謎を解く「局中法度」と「だんだら羽織」の真相

「士道に背くまじきこと」から始まり、違反すれば切腹──新選組の厳しい掟として有名な「局中法度」。じつは、この名称と五箇条の条文がまとまった形で広まったのは、昭和初期の作家・子母澤寛の著作からで、当時の史料でそのまま確認するのは難しいとされる。有力説 ただし隊内に厳しい規律があり、多くの隊士が切腹させられたこと自体は事実だ。史実

浅葱色に白い山形模様の「だんだら羽織」も、ドラマや漫画ではおなじみ。これは歌舞伎の忠臣蔵で赤穂浪士が着る衣装を意識したものと言われ、有力説 実際には派手すぎて評判が悪く、ごく初期にしか着られなかったという説が有力だ。有力説

謎を解く坂本龍馬の最期と、寺田屋の真相

1867年11月15日(旧暦)、坂本龍馬は河原町蛸薬師の醤油商近江屋で、中岡慎太郎とともに襲われ、命を落とした。奇しくも、龍馬の誕生日と同じ日だったとされる。有力説 犯人については、のちに元見廻組の今井信郎が関与を証言したことから、京都見廻組による犯行とする説が有力だ。有力説 新選組犯人説や、薩摩藩黒幕説などもささやかれるが、決め手はない。都市伝説

龍馬が1866年に襲われた伏見の船宿寺田屋は、恋人のお龍が風呂から飛び出して危険を知らせた場面で有名だ。建物には刀傷や弾痕とされる跡、「お龍が入っていた風呂」が公開されてきた。

ところが2008年、京都市は資料を調べたうえで、当時の寺田屋は鳥羽・伏見の戦いで焼失しており、現在の建物は後に建てられたものという見解を示した。史実 今の寺田屋は、それを踏まえて見学する「龍馬ゆかりの地」として公開を続けている。刀傷を見るときは、ぜひこの話を思い出してほしい。

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