因果の連鎖

応仁の乱と秀吉の大改造

京都の人が「この前の戦争」と言うと応仁の乱のこと──というのは有名なジョーク。だが、焼け野原から町を作り替えた者たちの痕跡は、今も地図に刻まれている。

謎を解く「この前の戦争」は応仁の乱?

京都の人に「この前の戦争で焼けてしもて」と言われたら、それは太平洋戦争ではなく応仁の乱のこと──。京都を語るときに必ず出てくる有名なジョークだ。都市伝説 実際にそう言う人に出会える確率はそれほど高くないが、京都が大規模な空襲を受けなかったこと、そして応仁の乱がそれほどまでに町を壊したことを、この冗談はうまく言い当てている。

1467年から1477年まで、11年続いた応仁の乱。将軍家や有力大名の家督争いが絡み合い、東軍(細川勝元)と西軍(山名宗全)に分かれて、京都の市街地そのものが戦場になった。史実 寺社も公家屋敷も町家も焼け、都は焼け野原になった。

地形を読む「西陣」は、軍の陣地の名前

西陣にある山名宗全邸跡の碑。「西軍の陣」が地名になった
西陣にある山名宗全邸跡の碑。「西軍の陣」が地名になった

高級織物の代名詞「西陣織」。その西陣という地名は、応仁の乱で西軍の総大将・山名宗全が本陣を置いたことに由来する。史実 戦が終わったあと、疎開していた織物職人たちがこの地に戻って機(はた)を織り始め、やがて地名と織物が結びついた。

堀川通と上立売通が交わるあたりの路地に「山名宗全邸跡」の碑がひっそり立つ。軍の陣地の名前が、500年以上たった今も、世界に知られる工芸品のブランドとして生きている。(→西陣と京都企業)

挑んだ者たち焼け跡から、町衆が町をつくった

応仁の乱のあと、京都は「上京」と「下京」という二つの町の固まりに縮んでしまう。その間は畑や空き地で、細い道一本でつながっているだけだった。史実

この時代に力をつけたのが、商人や職人たち町衆(まちしゅう)だ。町ごとに門(釘貫)を設けて自衛し、寄り合いで物事を決め、途絶えていた祇園祭を1500年に復活させた。史実 武士でも公家でもない人々が、自分たちの手で都を立て直した。この「町衆の自治」のDNAは、明治の番組小学校にまで受け継がれていく(→都を失った町の逆襲)。

謎を解く本能寺の変は「今の本能寺」ではない

1582年、織田信長が明智光秀に討たれた本能寺の変。ところが、寺町御池にある現在の本能寺は、事件の現場ではない。史実

当時の本能寺は、四条西洞院の近く──今の蛸薬師通と油小路通のあたりにあった。堀や土塁をめぐらせた、ちょっとした城のような寺だったという。変のあと、秀吉の都市改造によって現在地へ移転した。旧地には今、「本能寺址」の石碑と、説明板が立っている。史実

挑んだ者たち秀吉の大改造 ── 御土居と「うなぎの寝床」

秀吉が通した新しい道 うなぎの寝床
正方形の街区の真ん中に新しい道を通した

天下を取った豊臣秀吉は、京都を大胆に作り替えた。1591年には、町の周囲を総延長約22.5kmの土塁と堀でぐるりと囲む「御土居(おどい)」を築く。史実 外敵への備えであり、鴨川の洪水から町を守る堤防でもあった。

今も残る秀吉の御土居。京都をぐるりと囲んだ土の城壁
今も残る秀吉の御土居。京都をぐるりと囲んだ土の城壁

もう一つの大工事が、道の付け替え(天正の地割)だ。平安京以来の街区は約120m四方の正方形で、真ん中に空き地ができやすかった。秀吉は南北方向の新しい道を街区の真ん中に通し、細長い短冊形の区画に分けた。史実

京都の町家が、間口が狭く奥行きが深い「うなぎの寝床」になった理由としては、「間口の広さで税金がかかったから」という話がよく語られる。都市伝説 たしかに江戸時代、間口に応じた負担があったことは知られているが、そもそも道に面した短冊形の土地割りが秀吉の改造でつくられたことが、大きな下地になったと考えられている。有力説

因果の連鎖鐘に刻まれた8文字が、豊臣家を滅ぼした

国家 安康 方広寺の鐘
「国家安康」「君臣豊楽」

秀吉は東山に巨大な大仏を造り、方広寺を建てた。秀吉の死後、息子の秀頼が再建を進め、1614年、完成した大仏殿の梵鐘に刻まれた銘文が問題になる。史実

その中にあった「国家安康」「君臣豊楽」の文字。徳川方は「家康の名を“安”の字で切り裂き、豊臣を君として楽しむ意味だ」と難癖をつけた。これが大坂の陣の口実となり、翌1615年、豊臣家は滅亡する。史実

  1. 秀吉が大仏をつくる権力を誇示するための巨大プロジェクト。
  2. 秀頼が再建し、鐘を鋳造銘文を書いたのは臨済宗の高僧・文英清韓。
  3. 家康が「国家安康」に難癖鐘銘事件として外交問題化。
  4. 大坂冬の陣・夏の陣豊臣家滅亡。徳川260年の平和へ。
方広寺の鐘。白く囲まれた「国家安康」「君臣豊楽」の文字
方広寺の鐘。白く囲まれた「国家安康」「君臣豊楽」の文字

驚くべきことに、この鐘は今も方広寺に残っていて、誰でも間近で見られる。問題の文字は白く囲まれ、一目でわかるようになっている。大仏も大仏殿も失われたが、日本史を動かした「証拠物件」は、東山の静かな境内に吊られたままだ。史実

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