最前線

西陣と京都企業

花札屋がゲームの王者に、織物のパンチカードが電子産業に。京都のものづくりには「隣と同じことはしない」という、したたかなDNAがある。

パンチカードが柄を覚える

挑んだ者たちリヨンへ渡った3人の職人

明治のはじめ、都を失った京都で、西陣織もまた危機にあった。宮廷や公家という最大の顧客が東京へ去ってしまったからだ。史実

1872年、京都府は西陣の職人佐倉常七・井上伊兵衛・吉田忠七の3人を、絹織物の本場フランス・リヨンへ送り出す。目的は、最新の織機ジャカード機の技術を持ち帰ること。言葉も通じない異国で、3人は必死に技術を学んだ。史実

佐倉と井上は翌年、ジャカード機などを携えて帰国する。しかし吉田忠七は、さらに技術を学んだあと、ウィーン万博の出品物などを積んだフランス船ニール号で帰国する途中、1874年に伊豆沖で船が沈没し、帰らぬ人となった。史実 その後、京都の大工・荒木小平が木製のジャカード機を国産化し、西陣に一気に広まっていく。史実

西陣の路地。かつては機を織る音が町じゅうに響いた
西陣の路地。かつては機を織る音が町じゅうに響いた

人に迫る花札屋が、世界のゲーム会社になった

花札からゲーム機へ

1889年、京都の職人・山内房治郎が、手づくりの花札を売る店を開いた。のちの任天堂である。史実 社名は「運を天に任せる」に由来する、と説明されることが多い。有力説

任天堂はトランプやカルタで成長し、やがて玩具、そして家庭用ゲーム機へ。世界中の子どもたちが遊ぶゲームの会社は、今も本社を京都に置いている。史実

任天堂の旧本社社屋(現在はホテル「丸福樓」)
任天堂の旧本社社屋(現在はホテル「丸福樓」)

最前線京都企業は、なぜ東京へ行かないのか

京都には、世界的な企業が驚くほど多い。

企業創業京都らしいエピソード
島津製作所1875年1877年、京都で日本初の有人軽気球を揚げたとされる。社員の田中耕一氏が2002年にノーベル化学賞。
任天堂1889年花札屋からスタート。
ワコール1946年戦後、京都で婦人用アクセサリーの商いから出発した下着メーカー。
村田製作所1944年創業者の実家は清水焼の製陶所。焼きものの技術が電子部品に。有力説
京セラ1959年稲盛和夫が京都で創業。ファインセラミックスの会社。

よく指摘されるのが、伝統工芸の技術がハイテクに化けたという流れだ。焼きもの(清水焼)の技術はセラミック電子部品へ、染色の化学は精密機器へ、そして西陣のパンチカードは制御技術へ。有力説 さらに京都大学をはじめとする大学が集まり、研究者と企業の距離が近い。

もう一つは、京都の商人気質だ。「隣と同じことはしない」──大企業の下請けになるより、ほかにない技術で世界と直接取引する。本社を東京へ移さず、京都に根を張ったまま世界へ出ていく会社が多いのは、この気質のあらわれとも言われる。有力説

謎を解く「創業1000年」の店がある町

京都には、創業100年を超える「老舗」がとても多い。中には、驚くほど古い由緒を伝える店もある。

  • 一和(いちわ):今宮神社の門前で「あぶり餅」を売る茶店。長保2年(1000年)の創業と伝わる。伝承
  • 本家尾張屋:寛正6年(1465年)創業と伝わる蕎麦屋。もとは菓子屋で、御所にも出入りした。伝承
  • 田中伊雅仏具店:平安時代の創業と伝わる仏具店。伝承

創業年の多くは店や家の伝承によるもので、記録で厳密に確かめられるとは限らない。けれど、応仁の乱も天明の大火もどんどん焼けも乗り越えて、同じ場所で同じ商いを続けてきたこと自体が、京都という町の底力を物語っている。

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