謎を解く祇園祭は「一日」ではなく「一か月」
テレビのニュースで流れる山鉾巡行の映像から、祇園祭を「7月17日のお祭り」だと思っている人は多い。だが地元の感覚では、祇園祭は7月1日の「吉符入り」から31日の「疫神社夏越祭」まで、まる一か月続く八坂神社の祭礼だ。史実 巡行は、そのクライマックスの一つにすぎない。
起源は869年。都に疫病が流行したとき、当時の国の数にちなんで66本の鉾を立て、神泉苑に神輿を送って災厄を払った「祇園御霊会」が始まりとされる。有力説 怨霊や疫神を鎮める祈り(→平安京と怨霊)が、千年以上たった今も続いている。
現在の山鉾巡行は、17日の「前祭(さきまつり)」と24日の「後祭(あとまつり)」の2回。後祭は長く前祭と一緒に行われていたが、2014年に49年ぶりに本来の形へ戻された。史実 「京都祇園祭の山鉾行事」はユネスコ無形文化遺産にも登録されている。史実
世界とつながる山鉾に飾られた「トロイア戦争」

祇園祭が「動く美術館」と呼ばれるのは、山鉾を飾る懸装品(けそうひん)のためだ。その中には、日本のものだけでなく、ペルシャやインド、中国の織物、そしてヨーロッパのタペストリーまである。史実
たとえば室町通の鯉山を飾るのは、16世紀にベルギーのブリュッセルで織られたタペストリー。描かれているのは、ギリシャの叙事詩『イーリアス』のトロイア戦争の一場面だ。史実 もともと一枚の大きな織物だったものが切り分けられ、ほかの山鉾にも使われていると言われる。有力説
また函谷鉾には、旧約聖書・創世記のイサクとリベカの物語を描いたタペストリーが伝わる。史実 キリスト教が禁じられていた江戸時代にも、聖書の場面を描いた織物が、京都の町なかを堂々と巡行していたことになる。
謎を解く祇園祭の間、きゅうりを食べない家
京都には、祇園祭の期間中きゅうりを口にしないという家がある。伝承 理由は、きゅうりを輪切りにした断面が、八坂神社の神紋(五瓜に唐花・左三つ巴)に似ているから。神さまの紋を食べるのは畏れ多い、というわけだ。
今ではこの習慣を守る家は少なくなったが、鉾町の人や祭りに関わる家では、今も意識している人がいる。有力説 京都の夏の食卓は、祭りのカレンダーとつながっている。
人に迫る「くじ取らず」と、地面を踏まない稚児
山鉾巡行の順番は、毎年7月2日に京都市役所で行われる「くじ取り式」で決まる。争いを避けるため、室町時代からくじで順番を決めてきたという。史実
ところが、先頭を行く長刀鉾だけは、毎年必ず一番。くじを引かない「くじ取らず」だ。史実 そして長刀鉾は、今も本物の子どもが乗る「生稚児(いきちご)」を乗せる唯一の鉾。稚児は祭りの間、神の使いとして扱われ、地面に足をつけないよう強力(ごうりき)の肩に担がれて移動する。史実
因果の連鎖焼けた鉾が、150年ぶりに帰ってきた
- 1864年 禁門の変どんどん焼けで、多くの山鉾が焼失する(→幕末と新選組)。
- 大船鉾、巡行できなくなる船の形をした鉾は、以後「休み鉾」に。
- 町内の人々が、祭りだけは続ける焼け残った懸装品を守り、囃子を練習し続けた。
- 2014年 150年ぶりの巡行復帰後祭の復活と同じ年、大船鉾が戻ってきた。史実
2022年には、江戸時代の1826年の大雨で損傷し休んでいた鷹山が、196年ぶりに巡行に復帰した。史実 鉾一基を動かすには、何千万円もの費用と何十人もの担い手が必要になる。祇園祭は、観光イベントではなく、町内の人々が自腹と汗で守り続ける町衆の祭りだ。応仁の乱のあと祭りを復活させた町衆の心意気(→応仁の乱と秀吉の大改造)は、今も生きている。