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00 — 起源鬼が二度と来ない場所、
「不来方」。
盛岡は、かつて「不来方(こずかた)」と呼ばれていました。鬼が岩に手形を押して「二度と来ない」と誓った――そんな伝説を地名に抱えたこの土地が、どうして「盛る岡」になったのか。岩手という県名の由来から、改名の連歌まで、名前でたどる盛岡の起源です。
鬼が、岩に手形を押した。
盛岡の市街地の北東、名須川町の住宅地の中に、三ツ石神社という小さな神社があります。境内には、注連縄を巻かれた三つの巨大な花崗岩。これが、岩手という県名の由来とされる「三ツ石」です。
昔、この地には羅刹(らせつ)という鬼が住み、里人を苦しめていました。困り果てた人々が三ツ石の神に祈ると、神は鬼を捕らえて岩に縛りつけます。鬼は二度とこの地に来ないと誓い、その証として岩に手形を押して去っていきました。
「岩に手形」で岩手。「鬼が二度と来ない方角」で不来方。そして鬼が去ったことを喜んだ里人たちが、三ツ石の周りを「さんさ、さんさ」と踊り回ったのが、さんさ踊りの始まりだといいます。県名・古い地名・夏祭りの三つが、たった一つの伝説から生まれているのです。
伝説では、三ツ石は岩手山の噴火で飛んできた石だとも語られます。手形は長い年月で風化し、今では判別が難しいといわれますが、三ツ石神社の周りでは今も「鬼の手形はあの辺り」と指さす人に出会うことがあります。
盛岡の人にとって、さんさ踊りは単なる夏祭りではなく「鬼退治の祝い」。毎年8月の「盛岡さんさ踊り」では、太鼓の同時演奏数で世界記録に認定されたこともあります。

律令国家の最北端は、盛岡にあった。
鬼の伝説より、ずっと確かな記録も残っています。延暦22年(803)、征夷大将軍・坂上田村麻呂は、現在の盛岡市太田に志波城(しわじょう)を築きました。前年に蝦夷の指導者・阿弖流為(アテルイ)が降伏したことで、朝廷の支配はさらに北へ伸び、この城柵がその最前線となったのです。
志波城の外郭は一辺約840m。陸奥国府が置かれた多賀城にも匹敵する規模で、「最北の城柵」というより「北の拠点都市」と呼ぶべき大きさでした。ところが、この巨大な城柵はわずか10年ほどで放棄されます。理由は雫石川の水害。機能は南の徳丹城(矢巾町)へ移されました。
川に悩まされたのは古代だけではありません。のちに南部氏が築く盛岡城も、中津川と北上川の氾濫に長く苦しめられることになります。盛岡の歴史は、三つの川との付き合い方の歴史でもあるのです。
志波城跡は現在「志波城古代公園」として整備され、南門と築地塀、櫓などが実物大で復元されています。盛岡駅から車で20分ほど。広い芝生の向こうに岩手山を望む景色は、1200年前の兵士が見ていたものとほぼ同じかもしれません。

津軽を失ったから、盛岡が生まれた。
中世の南部氏は、今の青森県三戸町を本拠とする北奥の大勢力でした。その南部氏が、なぜ三戸から遠く離れた不来方に城を築くことになったのか。きっかけは、家臣の「裏切り」でした。
- 1571〜南部氏の一族で家臣筋だった大浦(津軽)為信が、津軽地方で次々と城を奪い独立へ動く。
- 1590為信は南部氏より先に豊臣秀吉の小田原陣へ参じ、津軽の領有を公認される。南部氏は領地の北西部を失う。
- 1591南部家中の内紛から九戸政実の乱。豊臣の大軍が鎮圧し、南部信直は九戸城(福岡城)へ移る。
- 1590年代津軽を失った結果、三戸は領国の北に偏りすぎた。蒲生氏郷・浅野長政らの勧めもあり、領国の中央・北上川の水運の要衝である不来方への移転が決まる。
- 1597頃不来方で築城開始。のちの盛岡城と城下町の誕生。
もし津軽為信の独立がなければ、南部氏は三戸にとどまり、岩手の県庁所在地は別の町になっていたかもしれません。盛岡という町は、北の宿敵がつくったとも言えるのです。津軽との因縁は、江戸時代を通じて続いていきます(詳しくは「南部藩、北の意地」で)。
「不来方」から「森岡」へ、「森岡」から「盛岡」へ。
城を築いた南部氏は、この土地の名を気に入りませんでした。「不来方」は「来ず方」、つまり人が来ない所とも読めてしまう。城下を栄えさせたい領主にとって、縁起の悪い名前です。
そこで一帯は「森ヶ岡(もりがおか)」と呼ばれるようになり、やがて「森岡」に。そして元禄4年(1691)、第4代藩主・南部重信と、城の鬼門を守る永福寺の住職・清珊(せいさん)法印とが交わした連歌の中から、「盛る岡」――盛り上がり栄える岡という表記が生まれたと伝えられています。
幾春も 華の恵の露やこれ盛岡の名の由来と伝わる連歌(元禄期)
宝の珠の 盛る岡山
永福寺の山号は今も「宝珠盛岡山」。町の名前の「原本」は、お寺の名前の中に残っています。
「森岡」の命名者を初代藩主の信直とする説、二代利直とする説など、改名の経緯と時期には諸説あります。「盛岡」への表記変更が元禄期であることは多くの資料で一致していますが、それ以前にも「盛岡」の表記が散見されるという指摘もあります。
「不来方」の名は消えたわけではありません。石川啄木の「不来方のお城の草に寝ころびて」の歌をはじめ、学校名や愛称、市の移動図書館車の名前などに今も使われています。盛岡の人にとって「こずかた」は、ちょっと誇らしい雅称なのです。
三十六年かかった、川と戦う城。
盛岡城は、北上川と中津川の合流点にある丘に築かれました。二つの川を天然の堀とする守りの堅い立地ですが、裏を返せば洪水の直撃を受ける場所でもあります。築城は慶長2年(1597)または3年(1598)に始まったとされますが、たびたびの水害で工事は中断を重ね、藩主が本格的に居城としたのは三代重直の寛永10年(1633)。足かけ三十数年の難工事でした。
盛岡城の最大の見どころは、東北では珍しい総石垣。白っぽい花崗岩を積み上げた石垣は、場所によって自然石に近い石を積んだもの、割った石を整えて積んだもの、きっちり加工した切石を積んだものがあり、築かれた時代の違いを読み取ることができます。
築城の工事中、地中から烏帽子のような形をした巨大な岩が掘り出されました。これは吉兆だとして大切にされ、「烏帽子岩」と呼ばれて城の守り神とされたと伝わります。今も盛岡城跡公園の一角で見ることができ、周囲の石垣と見比べるとその大きさがよくわかります。
