石割桜
石割桜
岩手県盛岡市 歴史情報ポータル

鬼が去り、源氏が来て、
北の都が生まれた。

北上川・中津川・雫石川。三つの川が出会う盛岡は、千年以上にわたって「北の境目」であり続けた町です。 古代朝廷の最北の城柵が築かれ、前九年合戦と奥州合戦という二つの戦いがここで幕を閉じ、 源氏の血を引く南部氏が城下町を開きました。わんこそばと石割桜の向こう側にある、盛岡の「なぜ」を集めました。

盛岡を読み解く、四つの鍵

なぜ、この川の合流点だったのか。

東北の県庁所在地は数あれど、盛岡ほど「境目」の記憶を重ねた町はそう多くありません。

一つは、蝦夷と朝廷の境目。平安の初め、坂上田村麻呂はここに律令国家の最北の城柵・志波城を築きました。

一つは、源氏の勝利の記憶。前九年合戦で安倍氏が最後に立てこもった厨川柵も、源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼしたあとに陣を置いたのも、今の盛岡市内です。

一つは、南部と津軽、そして賊軍の記憶。北の雄・南部氏は領地の北半分を失ったことで南へ城を移し、幕末には「賊軍」の汚名を着ました。その五十年後、盛岡は日本初の本格的政党内閣の首相を送り出します。

そしてもう一つが、文学と手仕事。啄木と賢治が青春を過ごし、鉄と羊毛と紫根が暮らしを彩る町。このサイトでは、この四つを軸に十二の部屋で盛岡をたどります。

北上川雫石川中津川 盛岡城 厨川(安倍館) 志波城(太田)
サイトを歩く

十二の部屋

それぞれ独立して読めます。興味のあるところから、どうぞ。

数字で見る盛岡

意外な数字、四つ

観光パンフレットにはあまり載らない、盛岡を語るための数字です。

127年
前九年合戦(1062)から奥州合戦(1189)まで。頼朝は127年前の「首の儀式」を盛岡近くで再現した
36個
中津川の橋を飾る慶長年間の青銅擬宝珠。400年以上前の金工品に、通勤途中で触れられる
16,000人
1853年、盛岡藩の圧政に抗して仙台藩領へ越境した三閉伊一揆の参加者(約)
499体
報恩寺羅漢堂に残る五百羅漢。京都の仏師9人が4年がかりで彫り上げた
写真で見る

盛岡の風景、いくつか

言葉だけでは伝わらない部分を、実際の風景で。各写真は関連するページへのリンクにもなっています。

概観

盛岡、駆け足の年表

詳しい物語は各ページで。ここでは全体の流れだけを。

803

坂上田村麻呂、志波城を築く

律令国家の最北の城柵。外郭は一辺約840m、多賀城にも匹敵する規模だった。のちに雫石川の水害で南へ移される。

1062

前九年合戦、厨川柵落つ

源頼義・義家父子が安倍貞任を討つ。貞任の首には八寸の鉄釘が打たれた。

1189

頼朝、厨川に入る

奥州藤原氏を滅ぼした頼朝は、127年前の先例をなぞって泰衡の首を釘で懸け、厨川柵で降人の処置を行った。

1591

九戸政実の乱

豊臣の大軍が北奥に押し寄せた、天下統一最後の戦い。乱後、南部信直は本拠の南下を決める。

1597頃

不来方で築城はじまる

着工年は慶長2年(1597)とも3年(1598)とも。川の氾濫に悩まされ、藩主の本格的な居城となるのは寛永10年(1633)。

1691

「盛岡」の名が定まる

藩主南部重信と永福寺の清珊法印の連歌から「盛る岡」の表記が生まれたと伝わる。

1853

三閉伊一揆

約1万6千人が仙台藩領へ越境して藩政を訴えた、日本最大級の百姓一揆。

1869

楢山佐渡、報恩寺で切腹

戊辰戦争の責任を一身に負った家老。享年39。

1918

原敬内閣成立

盛岡出身の原敬が、爵位を持たない「平民宰相」として本格的政党内閣を組織する。

1924

『注文の多い料理店』刊行

盛岡の光原社から。社名の名付け親は宮沢賢治自身だった。

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