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04 — 人物録北の城下町が、
送り出した人々。
盛岡は、人口のわりに驚くほど多くの「近代日本の顔」を送り出してきました。総理大臣が二人、五千円札の肖像になった国際人、国民的歌人、日本語辞書の代名詞となった言語学者。その多くが、同じ盛岡中学(現在の盛岡第一高校)の先輩・後輩でもありました。
日本の舵を握った人々

原敬はら たかし
賊軍とされた盛岡藩の出身ながら、日本初の本格的政党内閣を組織した「平民宰相」。号の「一山」は東北を侮った「白河以北一山百文」から。東京駅で暗殺された。

新渡戸稲造にとべ いなぞう
英文で『武士道』を著し、日本人の精神を世界に紹介した国際人。国際連盟事務次長として活躍し、五千円札の肖像にもなった。祖父・傳(つとう)は十和田の三本木原を開拓した人物。

米内光政よない みつまさ
日独伊三国同盟に反対し続けた海軍の良識派。首相としても戦線拡大に慎重な姿勢を貫いた。終戦時には海軍大臣として和平の実現に尽力した。

那珂通世なか みちよ
「東洋史」という学問の枠組みを提唱した一人とされる歴史学者。『成吉思汗実録』でモンゴル史研究の礎を築き、日本の紀年の研究でも知られる。
岩手県は「総理大臣を多く輩出した県」としても知られます。盛岡の原敬・米内光政のほか、水沢(現・奥州市)出身の斎藤実、山田町出身の鈴木善幸がおり、東條英機も父が盛岡藩士の家の出で、本籍は岩手県でした。
言葉で世界を開いた人々

石川啄木いしかわ たくぼく
『一握の砂』『悲しき玩具』で短歌に生活の実感を持ち込んだ天才歌人。盛岡中学を中退し、貧困のなか東京で26年の短い生涯を終えた。盛岡には新婚時代の家が残る。

金田一京助きんだいち きょうすけ
アイヌ語研究の第一人者。盛岡中学で啄木の先輩にあたり、生涯にわたって啄木を物心両面で支えた。自分の蔵書を売って啄木の下宿代を工面した話はよく知られている。

宮沢賢治みやざわ けんじ
花巻の出身だが、多感な学生時代を盛岡で過ごした。在学中に岩手山に何度も登り、報恩寺で参禅もした。最初の童話集は盛岡の光原社から出版されている。

野村胡堂のむら こどう
『銭形平次捕物控』の生みの親。盛岡中学で金田一京助と机を並べ、啄木の先輩にあたる。「あらえびす」の名でレコード評論家としても一時代を築いた。
町に、形を残した人々

葛西萬司かさい まんじ
辰野金吾とともに「辰野葛西事務所」を率い、東京駅や岩手銀行旧本店(現・赤レンガ館)を手がけた。郷里・盛岡には、東京駅より早く完成した「兄」を残している。

松本竣介まつもと しゅんすけ
盛岡中学在学中に病で聴覚を失い、画家を志した。戦時下にも静かな都市風景や自画像を描き続け、昭和前期を代表する洋画家の一人となった。

深沢紅子ふかざわ こうこ
野の花や少女を描いた柔らかな画風で知られる女性画家。盛岡には彼女の作品を収めた美術館がある。

菊池雄星きくち ゆうせい
花巻東高校から西武ライオンズへ入団し、のちにメジャーリーグへ。岩手から世界へ挑むアスリートの先駆けとなった。
読み方のヒント:このページには「盛岡生まれ」の人物と、「盛岡で学んだ・育った」ゆかりの人物が混在しています。啄木は日戸村(現・盛岡市玉山)生まれで渋民育ち、賢治は花巻出身、野村胡堂は紫波出身です。いずれも、人生の決定的な時期を盛岡で過ごしました。
肖像写真はいずれも明治〜昭和期に撮影された公開資料をもとに掲載予定です。
同じ校舎に、未来の宰相と歌人と言語学者がいた。
明治の盛岡中学(現在の岩手県立盛岡第一高校)の在籍者を並べると、ほとんど冗談のような顔ぶれになります。のちの首相・米内光政、陸軍大将・板垣征四郎、言語学者・金田一京助、作家・野村胡堂、そして石川啄木。年の差はあっても、彼らは同じ時代の同じ学校の空気を吸っていました。
啄木は、在学中に先輩たちの影響で文学に目覚め、学業そっちのけで短歌や詩に没頭しました。試験での不正が問題になったこともあり、結局は卒業を待たずに退学。その後も金田一をはじめとする先輩たちに助けられながら、短い生涯を駆け抜けます。
盛岡一高の校歌は、軍艦マーチのメロディーで歌われることで有名です(いわゆる「軍艦マーチ校歌」)。盛岡の人に聞けば、たいてい「ああ、あれね」という反応が返ってきます。