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06 — 文学

十五の心と、
注文の少ない童話集。

石川啄木と宮沢賢治。岩手が生んだ二人の文学者は、どちらも十代の多感な時期を盛岡で過ごしました。お城の草に寝ころんだ少年と、岩手山に何度も登った学生。二人の青春の足跡は、今も盛岡の町のあちこちに残っています。

石川啄木

お城の草に寝ころんだ少年。

史実

明治31年(1898)、12歳の石川一(のちの啄木)は、渋民村から盛岡中学へ進学しました。盛岡城跡は、授業を抜け出した少年たちのたまり場でもあったようです。後年、東京で貧しい暮らしを送っていた啄木は、そのころの自分をこう詠みました。

啄木
不来方のお城の草に寝ころびて
空に吸はれし
十五の心
石川啄木『一握の砂』(1910)

盛岡城跡公園には、この歌を刻んだ歌碑が立っています。「盛岡」ではなく、あえて古い雅称「不来方」を使ったところに、故郷への特別な思いがにじみます。

文学に夢中になった啄木は学業がおろそかになり、試験での不正が問題になったこともあって、明治35年(1902)、卒業を待たずに盛岡中学を退学します。16歳で上京した啄木を、その後も支え続けたのが、中学の先輩・金田一京助でした。

新婚の家

花婿のいない結婚式。

史実

明治38年(1905)、19歳の啄木は、盛岡中学時代からの恋人・堀合節子と結婚することになりました。ところが、盛岡で予定された結婚式の当日、新郎の啄木は現れませんでした。東京から帰郷する途中、仙台で足を止め、そのまま何日も盛岡に戻らなかったのです。式は花婿不在のまま行われました。

その後ようやく盛岡に戻った啄木が、家族とともに約3週間暮らした家が、今も中央通の近くに「啄木新婚の家」として残っています。武家屋敷の面影を残す茅葺きの小さな家で、啄木は随筆「我が四畳半」にこの家での暮らしを書きました。

地元の常識

啄木新婚の家は、盛岡に残る啄木ゆかりの唯一の住居として公開されています。盛岡の人に「新婚の家」と言えば、たいてい啄木の家のことを指します。

茅葺き屋根の啄木新婚の家
啄木新婚の家中央通
石に刻まれた石川啄木の歌碑
啄木の歌碑盛岡市内
宮沢賢治

岩手山と、報恩寺と、『アザリア』。

史実

大正4年(1915)、花巻の宮沢賢治は、盛岡高等農林学校(現在の岩手大学農学部)に首席で入学しました。在学中の賢治は、地質や土壌の調査に熱中し、実習や趣味を兼ねて岩手山に何度も登っています。夜を徹して山頂を目指し、ご来光を見たこともありました。

寮の仲間たちとは同人誌『アザリア』を創刊し、短歌や散文を発表。さらに北山の報恩寺では参禅もしています。石川啄木の伯父が住職を務めたこともある寺で、賢治がそこで座禅を組んでいたと思うと、二人の文学者の線が不思議に交わるのを感じます。

盛岡高等農林の旧本館は、現在「岩手大学農学部附属農業教育資料館」として残り、国の重要文化財に指定されています。明治の木造洋風建築の中に、賢治の学籍簿や当時の資料が展示されています。

岩手大学農学部附属農業教育資料館(旧盛岡高等農林学校本館)
旧盛岡高等農林学校本館岩手大学構内
光原社

社名の名付け親は、賢治だった。

史実

大正13年(1924)、賢治の最初の童話集『注文の多い料理店』が出版されました。版元は盛岡の光原社。創業者は高等農林で賢治の後輩にあたる人物で、花巻農学校で教えていた賢治を訪ね、膨大な原稿を預かったことが出版のきっかけでした。そして「光原社」という社名は、賢治自身が名付けたものです。

ところがこの童話集は、ほとんど売れませんでした。光原社の歩みを伝える文章では、自虐まじりに「注文の少ない童話集」となった、とまで書かれています。賢治の作品が広く読まれるようになるのは、彼が37歳で亡くなった後のことでした。

地元の常識

光原社は現在、民藝品や漆器、南部鉄器などを扱う工芸店として、材木町で営業を続けています。中庭の奥には喫茶「可否館」があり、賢治の童話の世界に迷い込んだような落ち着いた空間が、地元の人にも観光客にも愛されています。

バタフライ・エフェクト

賢治の一言が、盛岡のソウルフードを生んだ。

史実

賢治が花巻の稗貫農学校で教えていたころの教え子に、及川留吉という少年がいました。卒業後、学費が払えず進学をあきらめかけていた留吉に、賢治は盛岡高等農林学校の助手の職を紹介します。

  1. 1923賢治の紹介で、教え子の及川留吉が盛岡高等農林学校の農芸化学の助手に。発酵・醸造を学ぶ。
  2. 1928留吉は大阪のイースト製造会社の研究所へ。国産イースト開発の現場で酵母を研究する。
  3. 1931結婚して福田姓に。福田留吉となる。
  4. 1948戦後、盛岡に戻り福田パンを創業。岩手大学(かつての高等農林)の学生のために、安くてお腹いっぱいになるコッペパンを作る。
  5. 現在1日約1万個を製造する、盛岡市民のソウルフードに。

もし賢治が留吉に高等農林の職を紹介していなければ、酵母の研究者・福田留吉は生まれず、盛岡の人々が子どもの頃から食べて育ったあのコッペパンも存在しなかったかもしれません。福田パンの詳しい話は「三大麺と盛岡の食」で。

盛岡の言葉

この町ゆかりの人が残した言葉。

稲造
願わくはわれ太平洋の橋とならん
新渡戸稲造(東京大学入学時の面接で語ったと伝わる)

盛岡の鷹匠小路に生まれた少年は、日本と世界をつなぐ生涯を送った。

啄木
ふるさとの山に向ひて
言ふことなし
ふるさとの山はありがたきかな
石川啄木『一握の砂』(1910)

「ふるさとの山」は、渋民から仰ぐ岩手山を指すと考えられています。

敬
宝積
原敬の座右の銘

人に尽くして見返りを求めない、という意味。原敬記念館で、原の書を見ることができます。

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