トップ / 特集 / ラーメン ― 一杯の丼から見る日本と世界

第2章

焼け跡の屋台

昭和20年代〜30年代 闇市・引き揚げ・小麦

昭和20年(1945)8月、戦争が終わったとき、日本の多くの町は焼け野原でした。食べ物は配給だけでは足りず、人々は駅前などにできた「闇市」で、正規の流通を通らない食料を買って命をつないでいました。

戦争中、米や小麦は国が管理し、ラーメン店の多くは材料が手に入らずに店を閉めていました。その支那そばが、闇市の屋台で再び湯気を立て始めます。戦後のラーメンの歴史は、この屋台から始まりました。

闇市のどんぶり

闇市の屋台で売られた汁そばは、決してぜいたくなものではありませんでした。手に入る小麦粉で麺を打ち、鶏ガラや豚の骨、野菜くずなどを煮出してスープをとり、醤油で味をつける。具はほとんどのっていないこともありました。それでも、熱いスープと腹にたまる麺は、焼け跡で働く人々にとって何よりのごちそうでした。

当時、主食の米は不足し、政府は米の自由な販売を認めていませんでした。昭和22年(1947)には、食料の不足を背景に、飲食店の営業を制限する「飲食営業緊急措置令」も出されています。こうした規制の網の目をくぐるようにして、屋台や小さな店のラーメンは都市の人々の空腹を満たしていきました。

福岡に残るラーメンの屋台
福岡に残るラーメンの屋台

アメリカから届いた小麦

戦後の日本で、ラーメンが広く食べられるようになった背景には、小麦の存在があります。

終戦直後の食料危機のなかで、アメリカは占領地への援助(ガリオア資金など)として、小麦や小麦粉を日本に送りました。昭和29年(1954)には、日米の間で余剰農産物の購入に関する協定が結ばれ、アメリカの小麦がさらに大量に日本に入ってくるようになります。学校給食にパンが取り入れられたのも、この時代の小麦をめぐる政策と深く関係しています。

有力説米が不足し、小麦が比較的手に入りやすいという状況が、パンやうどんと並んで、中華麺を使うラーメンが広がる追い風になったと考えられています。当時の国の政策は、栄養の改善のために米だけに頼らない「粉食」をすすめていました。ラーメンは、その流れにちょうど合う食べ物でもありました。

1945年終戦。闇市に屋台が並ぶ
1954年米国の余剰農産物に関する協定
1958年チキンラーメン発売。「ラーメン」が定着

大陸から帰ってきた人々

戦争が終わると、旧満州(中国東北部)や朝鮮半島、台湾などから、600万人を超える軍人・民間人が日本に引き揚げてきました。

引き揚げてきた人々の中には、現地で中国の麺料理や餃子に親しんでいた人が少なくありませんでした。職を失い、元手もない彼らにとって、屋台は少ない資金で始められる商売でした。大陸で覚えた味を頼りに、ラーメン屋台や餃子の店を開いた人たちがいたことは、各地のラーメン店の創業の話の中にしばしば出てきます。

有力説ただし、引き揚げ者がラーメンの普及にどれだけ影響したかを数字で示す記録はありません。戦前から続く支那そばの流れ、手に入りやすい小麦、屋台という商売の手軽さ、そして大陸の味を知る人々。いくつもの条件が重なって、戦後のラーメンは全国に広がっていったと考えられます。

「支那そば」から「中華そば」へ

戦後、「支那」という言葉は中国を見下した呼び方だとして、公の場では使われなくなっていきます。それに合わせて、支那そばも「中華そば」と呼ばれるようになりました。今も昔ながらの醤油味のラーメンを「中華そば」と呼ぶ店が多いのは、この時代の名残です。

昭和20年代には、今も続く名店がいくつも生まれています。東京・荻窪では、戦後まもなく開業した店が煮干しと醤油の澄んだ中華そばで評判になり、のちに「荻窪ラーメン」と呼ばれるようになりました。福岡県の久留米では、昭和22年(1947)に屋台「三九」が白く濁った豚骨スープを出し、九州の豚骨ラーメンの源流となります(第4章)。札幌では昭和26年(1951)、屋台を集めた「ラーメン横丁」が生まれました。

煮干しと醤油の中華そば
煮干しと醤油の中華そば

夜鳴きそばとチャルメラ

昭和30年代になっても、ラーメンの屋台は町の夜の風景の一部でした。リヤカーに屋台を載せて住宅街を流し、チャルメラを吹いて客を呼ぶ。夜遅くまで働く人や、受験勉強の学生が、その音を聞いて表に出てくる。夜に売り歩くそばを「夜鳴きそば」と呼ぶのは、江戸時代の夜鳴きそば(そば売り)の呼び名を受け継いだものです。

やがて道路交通や衛生の規則が厳しくなり、ラーメンの屋台は少しずつ姿を消していきます。屋台で腕を磨いた人の多くは、小さな店を構えて「中華そば屋」の主人になりました。町の「中華そば屋」や「中華料理店」は、ラーメン、チャーハン、餃子を出す庶民の食堂として、全国に数を増やしていきました。昭和41年(1966)には、明星食品が屋台の合図そのものを名前にしたインスタント麺「チャルメラ」を発売しています。屋台の記憶は、インスタント麺の名前にも残りました。

岡持ちと出前

戦後の中華そば屋を支えたもうひとつの柱が、出前です。注文の電話を受けると、店の人が「岡持ち」と呼ばれる箱にラーメンの丼を入れ、自転車やスクーターで家や会社に届ける。昭和の町では、ごくありふれた光景でした。

出前のラーメンには、のびにくいように麺を少し硬めにゆでる、スープがこぼれないよう丼にラップをかける、といった工夫がこらされました。丼を食べ終えたら玄関の外に出しておき、店の人が後で回収に来る。そんな習慣も、出前文化とともに広まりました。第7章で紹介する山形市のように、来客があるとそばやラーメンの出前を取ってもてなす習慣が、地域の「ラーメン好き」を育てたと言われる町もあります。

「町中華」という場所

中華そば屋は、やがてラーメンだけでなく、チャーハン、餃子、野菜炒め、レバニラ、カツ丼やオムライスまで出す、町の大衆食堂へと育っていきました。こうした店は、近年「町中華」と呼ばれ、昭和の雰囲気を残す場所として、改めて注目されています。

町中華のラーメンは、専門店のラーメンとは少し違います。鶏ガラと野菜でとった、あっさりした醤油スープ。具は、チャーシュー、メンマ、ねぎ、ナルト。ほかの料理と同じ厨房で、手早く作られる一杯です。専門店のように行列ができることは少なくても、近所の人が毎日のように通う店として、戦後の町の暮らしを支えてきました。

しかし、町中華の多くは、戦後まもなく、あるいは高度経済成長期に開業した個人経営の店です。店主の高齢化と後継者不足から、ここ十数年、各地で閉店が相次いでいます(第10章)。

町中華の店先
町中華の店先

ラーメンは「高い」食べ物だった?

戦後まもないころのラーメンは、庶民の食べ物でありながら、決して安いものではありませんでした。米が足りず、肉はさらに貴重だった時代、チャーシューが何枚ものった一杯はごちそうです。屋台で食べる一杯のラーメンは、働く人々にとって、一日の終わりのささやかなぜいたくでもありました。

そこへ、家庭で、お湯さえあれば食べられるラーメンが登場します。昭和33年(1958)、大阪・池田市の小さな研究小屋から生まれた「チキンラーメン」です。ラーメンの歴史は、ここで店の外へ、家庭へ、そして世界へと飛び出していきます。

ここを見る:「中華そば」と書かれたのれん

昔から続く店ののれんや看板には、今も「ラーメン」ではなく「中華そば」「支那そば」と書かれていることがあります。店の創業年を確かめてみると、その言葉が使われていた時代と重なることが多いはずです。最近は、昔ながらの味を目指す新しい店が、あえて「中華そば」を名乗ることも増えています。

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この章の出典と注記

事実

  • 終戦直後、各地の闇市で屋台の汁そばが売られた。
  • アメリカはガリオア資金などの援助で小麦を日本に送り、1954年には余剰農産物の購入に関する協定(MSA協定に関連する協定)が結ばれた。
  • 戦後、海外から600万人を超える人が引き揚げた。
  • 久留米「三九」の白濁豚骨スープは1947年、札幌のラーメン横丁は1951年(新横浜ラーメン博物館の年表)。
  • 明星食品「チャルメラ」の発売は1966年。

諸説・補足

  • 小麦の援助や「粉食」の奨励、引き揚げ者の存在がラーメンの普及にどれだけ影響したかは、数字では示されていない。
  • 荻窪ラーメンの店の創業年は店ごとに異なる。

主な参考資料

  • 新横浜ラーメン博物館「日本のラーメンの歴史」
  • 農林水産省・厚生労働省の戦後の食料・栄養政策に関する公開資料
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