ラーメンは、いつ日本にやって来たのでしょうか。
この問いには、二つの答え方があります。ひとつは「中国の麺料理を、日本人が初めて口にしたのはいつか」という答え方。もうひとつは「今わたしたちが『ラーメン』と呼ぶ、スープに中華麺が泳ぐ一杯が、日本の町で売られるようになったのはいつか」という答え方です。前者は数百年前までさかのぼり、後者は百年ほど前に落ち着きます。この章では、その両方をたどります。
室町の禅寺と、水戸のご老公
記録に残るもっとも古い例として、新横浜ラーメン博物館が紹介しているのが、室町時代の「経帯麺(けいたいめん)」です。京都・相国寺の塔頭、鹿苑院の僧が書き継いだ日記『蔭涼軒日録』の長享2年(1488)の記事に、来客にこの麺をふるまったことが書かれています。経帯麺は、中国の料理書にも出てくる麺で、小麦粉にアルカリ性の水を加えて打つ、という作り方が知られています。そのため、今の中華麺に通じる麺が500年以上前の日本で食べられていた可能性がある、と紹介されるようになりました。
もうひとつよく知られているのが、「日本で最初にラーメンを食べたのは水戸黄門こと徳川光圀だ」という話です。明から亡命してきた儒学者・朱舜水(1600〜1682)は、寛文5年(1665)に光圀に招かれ、中国の麺の作り方を伝えたとされます。新横浜ラーメン博物館の年表は、光圀が元禄10年(1697)に中国風の麺を食べたとしています。
有力説ただし、どちらも「中国の麺を食べた」という記録で、それがスープ麺だったのか、どんな味だったのかはわかっていません。どちらの麺も、寺や大名の屋敷という限られた場所で客をもてなす料理にとどまり、町の人々の食べ物にはなりませんでした。今のラーメンにつながる流れは、もっと後、港が開かれてから始まります。

港が開いて、麺がやって来た
安政6年(1859)、横浜・長崎・函館の3港が外国との貿易のために開かれました。港のそばには外国人が住む居留地がつくられ、欧米の商人とともに、多くの中国人がやって来ました。彼らは欧米の商社で通訳や会計を務めたり、料理人や職人として働いたりしていました。
やがて居留地には、中国人が中国人のために開いた料理店が並ぶようになります。横浜の「南京町」(今の横浜中華街)はその代表です。そこで食べられていた、細い麺を塩味のスープに入れた汁そばが、日本人の間で「南京そば」と呼ばれるようになりました。
函館では明治17年(1884)、「養和軒」という店が新聞に「南京そば」の広告を出しています。ラーメンの歴史を語るときによく引かれる記録ですが、新横浜ラーメン博物館は、それが汁そばだったかどうかは分からないとしています。
明治32年(1899)に居留地の制度がなくなると、中国人はほかの地域にも住めるようになり、中国料理の店は少しずつ港の外へ広がっていきました。同じ年に長崎では、中華料理店「四海楼」の陳平順が、中国からの留学生に安くて栄養のある食事をと考えて「ちゃんぽん」を生み出したとされます。港町のそれぞれで、中国の麺が日本の暮らしに溶けこみ始めた時期でした。
浅草・来々軒――日本人のための「支那そば」
明治43年(1910)、東京・浅草に「来々軒」という店が開きました。店主は、横浜税関を退職した尾崎貫一という日本人です。尾崎は横浜の南京町から中国人の料理人を十数人呼び寄せ、日本人の客を相手に、中国料理を手ごろな値段で出しました。
その看板料理のひとつが、醤油味のスープに中華麺を入れた「支那そば」でした。中国人のための料理だった南京町の汁そばを、日本人の舌に合わせて醤油で味をつけた一杯です。浅草は当時、東京一の盛り場で、映画館や劇場の客、工場で働く人たちでいつもにぎわっていました。来々軒は大繁盛し、ピーク時には1日に2,500人から3,000人が訪れたとも伝えられます。
来々軒が「ラーメン店の草分け」と呼ばれるのは、最初に中華麺を出した店だからではありません。日本人が経営し、日本人の客に向けて、日本人が好む味の汁そばを、大衆食として大量に売った最初の大きな成功例だったからです。ここから、醤油味のスープに、チャーシュー、メンマ、ネギをのせた「東京ラーメン」の原型が広まっていきました。
来々軒は昭和19年(1944)、戦争のために浅草での営業を終えました。戦後は東京駅八重洲口で再開し、昭和40年(1965)には神田に移りましたが、後継者がおらず、昭和51年(1976)に閉店しました。その味は、新横浜ラーメン博物館が2020年から5年間の限定で再現し、令和8年(2026)7月には、創業者の子孫が浅草で店を復活させています。

留学生と、町の中国料理店
明治の後半、東京には中国からの留学生が大勢やって来ました。日清戦争のあと、近代化を急ぐ清の国は、多くの若者を日本へ学びに送り出します。新横浜ラーメン博物館の年表によると、明治39年(1906)ごろには留学生の増加にともなって、東京の神田などに、彼らを相手にする手ごろな中国料理店が増えていきました。
こうした店は、やがて日本人の学生や勤め人も通う店になります。明治の終わりから大正にかけて、家庭で作れる中国料理を紹介した料理本も出版され、よく売れたといいます。中国料理は、港町の居留地の珍しい料理から、町の人が気軽に食べられる料理へと変わっていきました。来々軒の成功は、こうした時代の流れの中で生まれたものでした。
チャーシュー、メンマ、ねぎ
来々軒のころの支那そばには、すでに今のラーメンとよく似た具がのっていたと言われます。豚肉を味つけして焼いたチャーシュー、発酵させたタケノコのメンマ、刻んだねぎ。どれも、中国の料理から取り入れたものです。
中国の汁そばの多くは、具の少ない、スープと麺を味わう料理でした。日本の支那そばは、そこにいくつもの具を並べることで、一杯でおなかが満たされる「食事」になっていきます。ラーメンの具がどのように生まれたのかは、第5章で詳しく見ていきます。
大正のころの支那そばは、町のそば屋のかけそばよりも高い食べ物だったとされます。肉ののった、脂のあるスープは、当時の多くの日本人にとって、ふだんの食卓にはないごちそうでした。「ちょっと高いけれど、たまに食べたい洋食や中華」。支那そばは、カレーライスやとんかつと同じように、明治から大正にかけて日本人が親しむようになった新しい外食のひとつだったのです。
チャルメラと屋台、そして震災
大正時代に入ると、支那そばは店の中だけでなく、町を流して歩く屋台でも売られるようになります。夜の町に響くチャルメラは、中国の嗩吶(さない)と同じ仲間の笛で、名前はポルトガル語に由来するといわれます。のちに支那そばの屋台の合図として定着しました。
大きな転機になったのが、大正12年(1923)の関東大震災です。東京と横浜の多くの店が焼け、料理人たちは仕事を求めて各地に散りました。新横浜ラーメン博物館の年表によれば、この時期、焼け野原の町で元手の少なくて済む屋台やラーメン専門店が増えていきました。同じ1923年には、中華麺に欠かせない「かん水」を日本人が製造・販売する業者も、横浜と東京・深川に生まれています。
中華麺を家庭や小さな店でも打てるようになると、支那そばは東京だけの食べ物ではなくなりました。札幌では大正11年(1922)に「竹家食堂」が中国人料理人を迎えて開業し、札幌ラーメンの元祖と呼ばれています。福島県の喜多方では、大正14年(1925)ごろに中国から来た青年・潘欽星が屋台を引き、のちに「源来軒」を開きました。九州では、昭和12年(1937)に久留米で屋台「南京千両」が豚骨のスープでラーメンを出し始めます。それぞれの町で生まれた一杯は、のちに「ご当地ラーメン」と呼ばれるものの種になっていきました(第4章)。
ラーメンを「ラーメン」にした水――かん水
うどんやそばとラーメンの麺は、何が違うのでしょうか。いちばん大きな違いは、「かん水」を使うかどうかです。
かん水は、炭酸ナトリウムや炭酸カリウムなどを溶かしたアルカリ性の水です。小麦粉に塩水だけを加えて打つうどんに対して、中華麺はこのかん水を加えて打ちます。すると、小麦粉のたんぱく質(グルテン)が引き締まって、独特のコシと弾力が生まれます。また、小麦粉に含まれるフラボノイドという色素がアルカリに反応して、麺が淡い黄色になります。ラーメンの麺の黄色は、卵の色ではなく、かん水の色なのです。あの独特の香りも、かん水によるものです。
中国では、アルカリ性の成分を含む湖の水や、植物の灰からとった灰汁を使って麺を打つ方法が古くから知られていました。日本でかん水が化学的に作られ、手軽に手に入るようになったことで、中華麺は中国人の料理人だけの技術ではなくなりました。昭和に入るころには、新聞や料理本に支那そばの作り方が載るようになり、家庭でも作れる料理として紹介されています。
名前の移り変わり
この一杯は、時代ごとに呼び名を変えてきました。明治には「南京そば」、大正から昭和の初めには「支那そば」。戦後、「支那」という言葉が使われなくなると「中華そば」が広まります。そして昭和33年(1958)に発売されたインスタントの「チキンラーメン」が全国で大ヒットしたことで、「ラーメン」という呼び名が一気に定着しました(第3章)。
「ラーメン」という言葉の語源には、いくつかの説があります。中国語で麺を手で引きのばして作る「拉麺(ラーミエン)」から来たという説、細い麺を意味する「柳麺(リウミエン)」から来たという説、札幌の竹家食堂で、中国人料理人が料理を出すときに「好了(ハオラー)」と声をかけたことから「ラーメン」になったという説などです。
伝承竹家食堂の「好了」説は、店の関係者の話として伝わるもので、ほかの説と同じく、確かめる記録は残っていません。どの説が正しいかは決まっておらず、いくつもの言葉と出来事が重なって、この名前に落ち着いたと考えるのが自然です。
ここを見る:麺の黄色
ラーメン店の麺と、うどん店の麺を並べてみると、色の違いがよくわかります。ラーメンの麺の黄色は、かん水が小麦粉の色素に反応した色です。最近は卵や着色料を使わず、かん水の量を抑えた白っぽい麺や、全粒粉を混ぜた茶色っぽい麺を出す店もあります。麺の色から、その店がどんな一杯を目指しているかが見えてきます。
この章の出典と注記
事実
- 『蔭涼軒日録』長享2年(1488)の記事に経帯麺の記録がある(新横浜ラーメン博物館の年表)。
- 安政6年(1859)に横浜・長崎・函館が開港した。
- 明治43年(1910)、浅草に来々軒が開店。店主は横浜税関を退職した尾崎貫一。
- 大正11年(1922)札幌・竹家食堂、昭和12年(1937)久留米・南京千両が開業。
- かん水は炭酸ナトリウム・炭酸カリウムなどを含むアルカリ剤で、麺のコシと黄色のもとになる。
諸説・補足
- 経帯麺や水戸光圀の麺が、今のラーメンと同じものだったかどうかはわからない。
- 函館・養和軒の「南京そば」(1884年)が汁そばだったかは不詳。
- 来々軒の1日の客数(2,500〜3,000人)は伝聞による数字。戦後の八重洲での再開の年は、資料によって異なる。
- 朱舜水は1682年に亡くなっており、1697年の記録は朱舜水の接待とは別のものと考えられる。
- 喜多方・源来軒の創業年や、「ラーメン」の語源には諸説ある。
主な参考資料
- 新横浜ラーメン博物館「日本のラーメンの歴史」「ラーメン大辞典」
- 横浜中華街・新横浜ラーメン博物館の公開資料、来々軒に関する報道
