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第七章

器械たちの帰還

1866〜1872年 山口/横浜/大阪/東京

1866年。謹助が長州に帰り着いたとき、故郷は、また戦を前に張りつめていた。

幕府が、ふたたび長州を討つ兵を差し向けようとしていたのだ。周防、長門の四方の国境から、諸藩の大軍が押し寄せてくる。

けれど、謹助が見た長州は、2年前、俊輔と聞多が帰ってきたときの長州とは、まるで違っていた。

兵たちが手にしているのは、異国から買い入れた新しい銃だった。百姓も町人も、身分を問わず集められた隊が、西洋の調練で動いていた。

長州は、変わっていたのだ。四国艦隊に打ち負かされたあの日から、攘夷の旗を降ろし、異国から学ぶ道へと、舵を切っていたのだ。

その夏、戦が始まると、長州の兵は、幕府の大軍を各地で押し返した。

「謹助!」

山口の藩庁の廊下で、聞き覚えのある大声がした。

振り返った謹助は、息をのんだ。

聞多だった。

頬から唇にかけて、太い傷あとが走っていた。笑うと、その傷が引きつれて、顔が少しゆがんだ。それでも、その笑い方は、ロンドンの居間で、腹を抱えて笑っていたときと少しも変わらなかった。

「聞多さん……その顔」

「おう、なかなか男前になったろうが」

聞多は、自分の頬を指でなぞって、また笑った。

「畳針で縫うてもろうた顔じゃ。そこらの顔とは、出来が違う」

謹助は、笑おうとして、うまく笑えなかった。目の奥が熱くなった。

廊下の向こうから、俊輔が駆けてきた。

「謹助さん! 体は、体はもうええんですか」

「……なんとか、帰ってこられました」

3人は、廊下の真ん中で、互いの肩をつかんだまま、しばらく何も言えなかった。

やがて、聞多が言った。

「これで、3人そろうたのう。あとの2人も、じきに帰ってくる」

その年の暮れ、英国の艦隊が、長州の三田尻の沖にやってきた。

戦をしに来たのではなかった。提督のキングが、藩主に会いに来たのだ。かつて大砲を撃ち合った英国と長州が、今は、互いに手を結ぼうとしていた。

謹助は、聞多とともに、その会見の通詞を務めた。

英国の提督の言葉を、藩主に伝える。藩主の言葉を、提督に伝える。ウィリアムソン夫人に教わった言葉が、ここでも生きていた。

会見が終わったあと、聞多が、謹助の背中を叩いた。

「おまえ、咳をしに行っただけの男じゃなかったのう」

謹助は、その言葉を、ずっとあとまで覚えていた。

時代は、目が回るような速さで動いた。

1866年、薩摩と長州が手を結んだ。ロンドンで、庸三たちと薩摩の若者たちが語り合った、あの夜から、1年もたっていなかった。

1867年、将軍が政を朝廷に返した。

1868年、鳥羽・伏見で戦が起こり、幕府は倒れた。江戸は東京と名を変え、年号は明治と改まった。

その年の11月。

横浜の港に、一隻の船が入ってきた。

降りてきたのは、2人の男だった。きちんとした洋服を着こなし、帽子をかぶり、鞄を提げている。5年前、髷を切り落とした頭に、慣れない洋服で、闇夜の小舟から異国船へ這い上がっていった、あの若者たちだった。

山尾庸三と、野村弥吉。

2人は、桟橋に降り立って、しばらく、あたりを見回していた。

5年前、闇の中で、こっそりと後にした港だった。あのときは、見つかれば死罪だった。今は、同じ港に、胸を張って降り立っている。国を出たことを、誰も罪には問わない。むしろ、新しい国が、2人の帰りを待っていた。

「変わったのう」

庸三が、ぽつりと言った。

「変わったのは、わしらのほうかもしれません」

弥吉が答えた。

沖で、汽笛が鳴った。5年前と、同じ音だった。

帰ってきた弥吉は、生まれた井上の家に戻った。

野村弥吉という名を返し、井上勝と名乗ることになった。

新しい名前で書かれた辞令を、勝は、しばらく不思議な気持ちで眺めていた。野村弥吉として海を渡り、井上勝として、この国で仕事をする。

名前が変わっても、変わらないものがある。

相模の海で、利助と並んで沖を見ていた少年は、今も、自分の中にいた。

帰ってきた2人を待っていたのは、何もない国だった。

新しい政府には、金がなかった。工場もなかった。機械を動かせる者も、ほとんどいなかった。あるのは、古い仕組みが崩れたあとの、だだっ広い荒野と、山のような仕事だけだった。

そして、5人は、それぞれの荒野へ散っていった。

俊輔は、伊藤博文と名を改め、新しい政府の中枢へ駆け上がっていった。聞多は、井上馨と名を改め、国の財布を預かる役目についた。

庸三は、工業を興すための新しい役所づくりに奔走した。

「機械を買うだけなら、金があれば誰でもできる」

庸三は、役所の会議で言った。

「じゃが、機械はいつか壊れる。古くなる。そのたびに異国から買うて、異国から技師を雇うておったら、日本は、いつまでたっても異国の言いなりじゃ」

庸三は、懐から、あのねじを取り出して、机の上に置いた。

御殿山から持ち帰り、上海を、喜望峰を、ロンドンを、グラスゴーを、ずっと一緒に旅してきた、一本のねじだった。

「このねじ一本、まだ日本では作れん。じゃが、作れる人間を育てれば、その人間が、いつか日本の工業を作る。今、工業がなくてもええ。まず、人を作るんです」

会議の席は、しんと静まりかえった。

1870年、工業を司る役所、工部省が生まれた。翌1871年、庸三の唱えた技術者を育てる学校、工学寮の設立が決まった。

謹助は、大阪へ向かった。

新しい政府は、国じゅうの銭をそろえるため、大阪に造幣の役所を建てていた。香港の造幣局から、機械をそっくり買い入れた。英国人の技師たちを、高い給金で雇い入れた。

その頂点に立ったのは、キンダーという英国人だった。もとは軍人で、香港の造幣局を率いていた男だった。

謹助は、その下で、日本人の側の責任者の一人となった。

1871年の春、造幣の役所は、仕事を始めた。

明治初期の大阪・造幣寮
明治初期の大阪・造幣寮

初めて打ち出された銀貨を、謹助は、手のひらに載せた。

ずしりと重かった。縁にはきちんと刻みが入り、表には竜の模様が浮き出ている。

メキシコの銀貨と、並べてみた。重さも、大きさも、ほとんど変わらない。

謹助は、新しい銀貨を指先ではじいた。

澄んだ音がした。

その音を聞きながら、謹助は、目を閉じた。横浜の両替商の店先。ロンドンの天秤。イングランド銀行の機械。咳をこらえて眠れなかった、冬の夜。

ここまで、来た。

けれど、謹助はまだ知らなかった。この銀貨を打ち出す機械の前に、日本人が立つことを、キンダーが、なかなか許そうとしないことを。

東京の役所の一室で、勝は、久しぶりに俊輔と向かい合った。

いや、もう俊輔ではない。新政府の大蔵の役人、伊藤博文である。洋服の襟をきちんと立て、口ひげをたくわえた姿は、ペガサス号の船底で痩せこけていた若者とは、別人のようだった。

けれど、口を開けば、昔のままだった。

「弥吉、汽車を走らせるぞ」

「伊藤さん、わしはもう弥吉じゃありません。井上勝です」

「そうじゃったのう。聞多も井上、おまえも井上。ややこしゅうてかなわん」

伊藤は、からからと笑った。それから、急に真顔になった。

「鉄道を敷く。東京から横浜まで。いずれは京、大坂、神戸まで。政府の中には、反対する者が山ほどおる。金の無駄じゃ、異人に国を売る気か、とな」

「でしょうね」

「わしと大隈さんで、なんとか押し通した。英国から金も借りる。じゃが、敷くのは、おまえじゃ。日本で、本物の鉄道を見て、本物の鉄道を学んできたのは、おまえしかおらん」

勝は、黙ってうなずいた。

伊藤は、窓の外に目をやった。

「相模の海を、覚えちょるか」

「忘れたことはありません」

「わしは、あのときの問いの答えを、まだ自分の目で見ちょらん」

伊藤は、勝のほうを向いた。

「見せてくれ。日本の土の上で」

勝は、鉄道を任された。

東京の新橋から、横浜まで。およそ29キロ。日本で最初の鉄道を敷く仕事だった。

英国から、技師のモレルが招かれた。勝は、その横で、線路の道筋を一つひとつ決めていった。

けれど、仕事は、始める前からつまずいた。

「土地を、渡さんと言うちょります」

部下が、青い顔で報告に来た。

東京の高輪あたり、東海道沿いの平らな土地には、軍の用地や、旧大名の屋敷が並んでいた。軍の役所は、国の守りの土地を、得体の知れない鉄道などに渡せるかと言って、測量の者さえ通そうとしなかった。

「鉄道なんぞに金を使うくらいなら、軍艦を買え」

そう言い放った者もいた。

勝は、地図を前に、何日も考えこんだ。

陸がだめなら、どうする。

地図の上で、勝の指が、海岸線をなぞった。高輪の沖は、遠浅の海だった。

「海の上を、走らせればええ」

誰かが、そう言い出した。政府の中で鉄道を後押ししていた大隈重信だった。

海の中に、石を積んで、土手を築く。その土手の上に、線路を敷く。陸の土地を一坪も使わずに、海の上を汽車が走る。

聞いた者たちは、目をむいた。

けれど、勝は、その案に飛びついた。ロンドンの地下を走る鉄道を、この目で見てきたのだ。地面の下を走れるなら、海の上だって走れる。

石垣を積む技なら、日本の職人たちは、昔から城を築いてきた腕を持っている。英国の技師の図面と、日本の石工の腕を合わせれば、できないことはない。

高輪の沖に、長い長い石の土手が、少しずつ延びていった。

「高輪鉄道之図」。海の上の築堤を走る汽車を描いた錦絵
「高輪鉄道之図」。海の上の築堤を走る汽車を描いた錦絵

工事のさなか、モレルが倒れた。

30歳の若さだった。英国の技師は、日本の鉄道の完成を見ることなく、病で世を去った。

勝は、モレルの墓の前で、長いこと立ち尽くしていた。

異国の人間が、この国のために命を削り、この国の土に眠る。ウィリアムソン教授が、マセソンが、グラスゴーの親方が、自分たちにしてくれたことを、モレルは、この国にしてくれたのだ。

「必ず、走らせます」

勝は、墓に向かって、小さく言った。

明治5年9月。

新橋の駅の前は、黒山の人だかりだった。

着飾った役人たち。異国の公使たち。見物に押し寄せた東京じゅうの町人たち。そして、この日のために、天皇が、駅に姿を見せていた。

ホームには、英国から運ばれてきた機関車が、黒い車体を光らせて待っていた。

勝は、ホームの端に立っていた。

晴れの式典の真ん中ではない。人だかりから少し離れた、ホームの端だった。そこから、機関車と、その先に延びる線路を、じっと見つめていた。

線路は、新橋を出ると、海の上の土手を走って品川へ向かう。そこから御殿山のふもとを通り過ぎ、横浜まで。

御殿山。

10年前、仲間たちが英国の家に火を放った、あの丘のすぐ下を、今日、日本で最初の鉄道が、晴れて開業するのだ。

汽笛が、鳴った。

甲高く、長く、青空に向かって。

動輪が、ゆっくりと回りはじめた。

見物の人々から、どよめきが上がった。拍手が起こり、歓声が上がり、誰かが叫び、誰かが泣いた。

勝は、声を上げなかった。

ただ、汽車が、自分の目の前を通り過ぎ、小さくなり、煙だけを残して見えなくなるまで、身じろぎもせずに立っていた。

この日、伊藤は、ここにいなかった。政府の使節団の一員として、はるか海の向こう、アメリカから欧州へと旅を続けていた。

利助。

勝は、胸の中で、その名を呼んだ。

帆がないのに、どうやって進むんじゃ。

見えるか。これが、その答えじゃ。

目次・登場人物

この章の史実と創作

史実

  • 遠藤は1866年に帰国した。同年夏の幕府との戦(四境戦争)で、洋式の銃と身分を問わない諸隊を備えた長州は幕府軍を退けた。
  • 1866年、英国のキング提督が長州を訪れて藩主と会見し、遠藤は井上馨とともに通訳を務めた。
  • 1866年に薩長同盟、1867年に大政奉還、1868年に戊辰戦争が起こり、江戸は東京と改められ、明治と改元された。
  • 山尾と野村は1868年11月に帰国した。野村は生家の井上家に戻り、井上勝と名乗った。
  • 山尾は「今は工業がなくても、人を作れば、その人が工業を興す」という趣旨の考えを示していた(J-STAGE掲載の講演論文による)。本文では会議での発言として描いた。
  • 1870年に工部省が設けられ、1871年、山尾の提唱で技術者を育てる工学寮の設立が決まった。
  • 大阪の造幣寮は香港造幣局の機械を買い入れ、香港造幣局長だった英国人キンダーを首長に迎えて、1871年に操業を始めた。遠藤は日本側の幹部として加わった。
  • 新橋〜横浜(約29km)の鉄道は、英国人技師モレルの指導で建設された。沿線の軍用地や旧薩摩藩邸の土地が得られなかったため、大隈重信の発案で、新橋〜品川間の高輪の海上に約2.7kmの築堤を築き、その上に線路を敷いた。井上勝は鉄道頭として建設を指揮した。品川〜横浜間は明治5年5月に仮開業しており、9月は新橋まで延びた正式開業である。
  • 鉄道開業のとき、伊藤は岩倉使節団の副使として欧米を回っていた。
  • モレルは開業を見ずに1871年、30歳で病死した。
  • 明治5年9月、天皇を迎えて新橋〜横浜間の鉄道開業式が行われた。

創作

  • 謹助と聞多・俊輔の再会、聞多の「男前になったろうが」などの会話。
  • 伊藤が勝に鉄道を託す場面(伊藤と大隈重信が政府内で鉄道建設を推し進め、英国からの借款で資金を得たことは史実)。
  • 山尾と野村の横浜での会話、山尾が会議でねじを置く場面。
  • 謹助が初めての銀貨をはじく場面、勝がモレルの墓に語りかける場面、開業の日の勝の心の動き。
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