トップ / 特集 / 海を越えた五つの炎

第六章

残された三人

1864〜1867年 ロンドン/グラスゴー

手紙が届いたのは、2人がロンドンを発ってから、ずいぶんたってからのことだった。

差出人は、俊輔だった。日本からロンドンまで、手紙は何か月もかかって海を渡ってくる。だから、そこに書かれていることは、どれも、とうに終わってしまった出来事だった。

庸三が封を切り、弥吉と謹助が両脇からのぞきこんだ。

京都での敗戦。久坂玄瑞の死。4か国の艦隊による下関の砲撃と、長州の大敗。

そして、聞多が夜道で斬られたこと。

「聞多さんが……」

弥吉の声が震えた。

庸三は、黙って先を読んだ。手紙は、こう続いていた。

――聞多は、生きている。所という医者が、畳針で50針あまりも縫い合わせて、命をつないでくれた。顔に大きな傷が残ったが、口だけは前より達者になった。

弥吉は、思わず笑い、それから、袖で目元をぬぐった。

手紙の最後には、こうあった。

――こちらのことは、こちらで何とかする。おまえたちは、一日でも長くそこにおって、一つでも多く持って帰れ。それが、聞多と俺の願いだ。

庸三は、手紙をたたんで、懐のねじと一緒にしまった。

3人の暮らしは、日に日に苦しくなっていった。

藩から借りた金は、もう心細いほどしか残っていない。日本からの仕送りは、長州が戦と内輪もめで手いっぱいの今、あてにできなかった。

3人は、食べるものを切りつめた。暖炉の石炭を惜しみ、外套を着たまま本を読んだ。それでも、講義には一度も休まず通った。

弥吉は、とりわけ、何かに取りつかれたように学んだ。

化学の講義に加えて、鉱山の掘り方と、鉄道の敷き方を学びはじめた。教授たちの紹介状を手に、イングランドの鉱山や鉄道の現場をたずね歩いた。測量の器械を借り、技師たちの後をついて回り、橋の架け方、トンネルの掘り方、線路の勾配の取り方を、帳面に書きためていった。

「弥吉、少しは寝え」

夜中、ガス灯の下で計算を続ける弥吉に、庸三が声をかけた。

「寝ちょる暇がないんです」

弥吉は、顔も上げずに言った。

「聞多さんは、斬られても生きちょる。俊輔さんは、死ぬような目に遭いながら、国を残そうとしちょる。わしらが持って帰るもんがなかったら、2人に合わせる顔がない」

1865年の初夏。

ロンドンに、新しい日本人の一団がやってきた。

19人。薩摩藩が送り出した留学生と使節たちだった。

その知らせを聞いたとき、3人は顔を見合わせた。

薩摩は、敵だった。前の年の夏、京都で長州の軍勢を打ち破ったのは、会津と、そして薩摩の兵だった。久坂玄瑞は、その戦いの中で死んだのだ。

「会うんか」

謹助が、低い声で言った。

「会わんわけにはいかんでしょう。同じ町におるんじゃけえ」

弥吉が答えた。

数日後、3人は、マセソンの屋敷で、薩摩の若者たちと引き合わされた。

部屋に入った瞬間、空気が張りつめた。薩摩の者たちも、こちらが長州だと知っている。互いに、目を合わせようとしなかった。誰かの手が、無意識に腰のあたりを探った。そこに、もう刀はないというのに。

長い沈黙を破ったのは、マセソンだった。英国人の紳士は、何も知らない顔で、にこやかに言った。

「皆さんは同じ国の方々ですから、きっと話が合うでしょう」

誰かが、ぷっと吹き出した。

それは、薩摩の、いちばん年若い若者だった。

「同じ国の方々、じゃと」

若者は、笑いをこらえきれずに言った。

「国元では、斬り合いをしちょる仲じゃというのに」

その言葉で、張りつめていたものが、ふっと緩んだ。庸三が、苦笑した。弥吉も笑った。謹助までが、口元をほころばせた。

そうなのだ。この町の人間から見れば、薩摩も長州もない。同じ、遠い東の島国から来た、同じ顔をした若者たちにすぎない。

その晩、3人と薩摩の若者たちは、遅くまで語り合った。上海の港のこと。船の上の苦労のこと。ロンドンの食べ物のまずさのこと。そして、国の行く末のこと。

話せば話すほど、わかってきた。この町に来た日本人は、藩がどこであれ、みな同じものを見て、同じことを感じている。

国の中で争っている場合ではない、と。

1866年。

謹助の咳は、もう隠しきれないほどになっていた。

ロンドンの湿った空気が、謹助の胸をむしばんでいた。医者は、このままこの町にいれば命にかかわる、と言った。

謹助は、最後まで首を縦に振らなかった。

「まだ、何も持って帰っちょらん」

寝床の中から、謹助は、かすれた声で言った。

「イングランド銀行の機械も、天秤も、まだ半分もわかっちょらん。これで帰ったら、わしは、藩の金を使って、咳をしに来ただけの男になる」

「謹助さん」

庸三が、寝床の脇に膝をついた。

「聞多さんが、言うたでしょう。5人で一つじゃと」

謹助が、庸三を見た。

「謹助さんが見てきたものは、謹助さんの頭の中に、ちゃんと入っちょる。全部わからんでも、ええ。続きは、日本でやればええ。わしらが持って帰るもんと、謹助さんが持って帰るもんを合わせて、ようやく一つになるんです」

謹助は、長いこと天井を見つめていた。

それから、枕元に置いてあった、あのメキシコの銀貨を手に取った。

「……帰ったら、日本にも、こういう銭を造りたい」

謹助は、銀貨を指先ではじいた。横浜の両替商の店先で鳴ったのと同じ、澄んだ音がした。

「誰が持っても、どこへ持っていっても、疑われん銭を」

1866年。遠藤謹助は、病をおして日本へ帰っていった。

2人になった庸三と弥吉は、それぞれの道を選んだ。

弥吉は、ロンドンに残って、鉱山と鉄道の学問を続ける。

庸三は、北へ行く、と言った。

「グラスゴーへ行く」

スコットランドの港町、グラスゴーには、世界でも指折りの造船所が集まっている。教室で船の理屈を学ぶのではない。船を造る現場に、自分の体ごと飛びこむ。それが、庸三の決めた道だった。

けれど、グラスゴーへ行く金がなかった。

それを知った薩摩の若者たちが、ある日、黙って庸三の前に小さな包みを差し出した。

中には、金貨が入っていた。16ポンドあった。

「受け取れん」

庸三は、首を振った。

「あんたらも、苦しいのは同じじゃろう」

「受け取ってくいやんせ」

薩摩の若者は、言った。

「おはんが造船を学んで帰れば、それは長州のためだけじゃなか。日本のためになる。わいどんの国のためにもなる」

庸三は、包みを握りしめたまま、しばらく顔を上げられなかった。

国元では、斬り合いをしている仲だった。その相手が、なけなしの金を出し合って、自分を送り出そうとしている。

グラスゴーの空は、ロンドンよりもさらに低く、重かった。

クライド川の両岸に、造船所が延々と連なっている。鉄の骨組みが、巨大な鯨の骨のように、空に向かって組み上がっていた。

庸三は、ネピアの造船所に、見習いの職工として入った。

朝6時に工場の門をくぐる。鉄を運び、鋲を打ち、炉の火の番をする。昼は職工として働き、夜は、町のアンダーソン・カレッジの夜学に通って、数学と機械学を学んだ。

最初のうち、職工たちは、この東洋の若者を遠巻きにして見ていた。けれど、庸三は、誰よりも早く来て、誰よりも遅くまで残った。言葉は通じなくても、手は嘘をつかない。半年もたつころには、庸三の打つ鋲を、親方が黙ってうなずいて見るようになっていた。

夜学の教室は、昼の仕事を終えた職工や、見習いの若者たちでいっぱいだった。誰もが、油と煤の匂いをさせていた。ランプの下で、講師が黒板に機械の図を描き、力の計算式を書いていく。

庸三の隣の席には、たいてい、一人のスコットランドの若者が座っていた。庸三より10歳以上若い、まだ少年の面影の残る見習いだった。

若者は、東洋から来たこの無口な男が、気になってしかたがない様子だった。庸三が帳面に漢字で書きこむのを、横から珍しそうにのぞきこんだ。

ある晩、若者は、思いきったように話しかけてきた。

「あなたは、どこから来たのですか」

「日本」

庸三は答えた。

「日本……」

若者は、その名前を、口の中で転がすように繰り返した。

「そこには、こういう学校はありますか。機械や、船の造り方を教える学校は」

庸三は、少し考えてから、首を振った。

「ない。まだ、ない」

それから、ゆっくりと付け加えた。

「いつか、造る」

若者は、目を丸くして庸三を見た。それから、何か面白いものを見つけたように、にっと笑った。

その若者の名は、ヘンリー・ダイアーといった。それから何年ものちに、彼が海を渡り、庸三の造る学校で、日本の若者たちに工学を教えることになるのだが、そのことを、このときの2人は、まだ知らない。

カン、カン、カン。

造船所じゅうに、槌の音が響いていた。何百本もの槌が、ばらばらに鳴っているようでいて、どこかで一つの大きなうねりになっている。庸三は、その音の中で働くのが好きだった。

ある日、庸三は、一人の職工に目をとめた。

その男は、仲間と話をしなかった。かわりに、指と手のひらを素早く動かして、何かを伝えていた。仲間も、同じように手を動かして答える。男の耳は、聞こえないのだった。

それでも、男の腕は、誰よりも確かだった。鋲を打つ角度、鉄板の継ぎ目の合わせ方。親方が、難しい仕事を真っ先にその男に任せているのを、庸三は何度も見た。

耳が聞こえなくても、これだけの仕事ができる。

日本では、耳の聞こえない者、目の見えない者は、学ぶ場所も、働く場所も、ほとんど与えられていない。もし、日本にも、そういう者たちが学べる場所があったなら。

庸三は、その男の手の動きを、いつまでも見つめていた。

ロンドンに残った弥吉は、一人になった。

ウィリアムソン家の居間は、急に広くなったように感じられた。5人で笑い転げた夜が、遠い昔のことのように思えた。

弥吉は、寂しさを紛らわすように、学問に打ちこんだ。講義に出て、試験を受け、鉱山学と鉄道の学びを積み重ねていった。のちに弥吉は、その修了の証書を手にすることになる。

休みの日には、機関車を造る工場をたずねた。

巨大な動輪が、旋盤で一つひとつ削り出されていく。ボイラーの鉄板が、熱い鋲で継ぎ合わされていく。工場の奥では、組み上がったばかりの機関車が、試運転の蒸気を噴き上げていた。

汽笛が鳴った。

弥吉は、その音に、思わず目を閉じた。

相模の海で、利助が「帆がないのに、どうやって進むんじゃ」と言った日から、もう10年あまりがたっていた。今の弥吉は、その答えを、ボイラーの鉄板の厚さから、動輪の直径まで、すべて言うことができる。

けれど、答えを知っているだけでは、まだ足りない。

日本は、山ばかりの国だ。川は急で、平地は狭い。その国に、どうやって線路を敷くのか。トンネルを掘り、橋を架け、勾配をならす。それを、日本の人間の手で、やってのけなければならない。

工場からの帰り道、弥吉は、夕暮れのテムズ川のほとりで立ち止まった。

川の向こうを、汽車が煙を引いて走っていく。その煙が、いつか、日本の山あいにたなびく日のことを、弥吉は思い描いた。

1867年の暮れ。

グラスゴーの下宿に、ロンドンの弥吉から手紙が届いた。

――日本で、大きなことが起きたらしい。将軍が、政を朝廷に返したそうだ。新聞に小さく出ていた。詳しいことは、まだわからない。

庸三は、手紙を握りしめて、窓の外を見た。

クライド川の上に、鉛色の空が垂れこめていた。造船所の槌の音が、今日も、遠く近く響いている。

その音が、急に、自分を呼んでいるように聞こえた。

帰る時が、来たのだ。

目次・登場人物

この章の史実と創作

史実

  • 伊藤・井上の帰国後、山尾・野村・遠藤の3人はロンドンに残って学び続けた。野村はUCLで鉱山や鉄道の技術を学び、各地の鉱山や鉄道を見学した。
  • 1865年、薩摩藩の留学生と使節あわせて19人がロンドンに着き、長州の留学生と同じくウィリアムソン教授のもとで学んだ。前年の禁門の変では、薩摩は長州と戦っていた。
  • 遠藤は病気のため1866年(後半とされる)に帰国した。英国ではイングランド銀行で紙幣の印刷技術を見ており、のちに造幣局で日本人による貨幣づくりを確立した。
  • 山尾はグラスゴーに移り(1865年とする説と1866年とする説がある)、ネピア造船所で見習い職工として働きながら、アンダーソン・カレッジの夜学で学んだ。のちに工部大学校の都検となるヘンリー・ダイアー(当時は別の工場の見習い)も同じ夜学に通っていたが、当時2人が親しく話した記録はない。
  • 山尾は1871年に起草した盲聾唖学校設置の建白書の中で、グラスゴーの造船所に耳が不自由でも十分な技術を持って働く者がいたことを書いている。
  • 1867年(慶応3年)10月、将軍徳川慶喜が政権を朝廷に返した(大政奉還)。

有力説

  • 山尾がグラスゴーへ行く資金に困っていたとき、薩摩の留学生たちが16ポンドを集めて贈ったと伝わる。

創作

  • 俊輔からの手紙の文面、3人の暮らしぶり、弥吉と庸三の会話。
  • マセソンの屋敷での薩摩の若者たちとの対面と会話。実際に両藩の留学生がどのように知り合ったかの細部は創作。
  • 夜学で隣り合ったダイアーとの会話(2人が夜学で顔を合わせていたことをもとにした創作)、弥吉が機関車工場をたずねる場面。
  • 謹助が帰国を決める場面、16ポンドを渡す場面のやりとり、耳の不自由な職工を見つめる場面の細部。
広告