文久2年12月12日。夜更け。
品川の御殿山は、骨まで冷えきっていた。
伊藤俊輔は、枯れ草の斜面に腹ばいになったまま、かじかんだ指に息を吹きかけた。吐いた息が白く散って、すぐに闇に溶ける。
春になれば、この山は桜で埋まる。江戸の町人たちが重箱を提げて登り、海を見下ろしながら酒を酌み交わす。そういう場所だった。その花見の山を、幕府は異人のために切り取った。柵をめぐらせ、堀を掘り、英国の公使館を建てた。江戸の者たちは陰で舌打ちをしたが、それ以上のことは誰もしなかった。

今夜、それ以上のことをしに来た者が、13人いる。
「……俊輔」
すぐ横で、低い声がした。井上聞多だった。俊輔より6つ近く年上で、家柄もずっと上の男が、今は泥だらけの頬を寄せてくる。
「おまえ、震えちょるぞ」
「寒いけえです」
「そうか」
聞多は、ふっと鼻で笑った。その懐には、焼玉が抱えられている。油を染ませた綿を固め、火薬を仕込んだものだ。昼のうちに、品川の宿でこしらえた。
斜面の上で、影が一つ、片手を挙げた。高杉晋作だ。隣に久坂玄瑞の大きな背中が見える。
合図だった。
堀は思ったより浅かった。氷のような水が膝まで来て、俊輔は声を殺して歯を食いしばった。柵を越え、植え込みの陰を走る。
建物は、目の前にあった。
大きかった。闇の中でもわかるほど大きく、まっすぐで、どこにも歪みがなかった。ほとんど出来上がっていて、まだ誰も住んでいない。それは調べてあった。
裏手の戸を外して、中に入る。
新しい木の匂いがした。漆とも違う、つんとした塗料の匂いが混じっている。
暗がりに目が慣れてくると、壁に並んだ窓が見えた。
俊輔は、思わず立ち止まった。
窓に、ギヤマンがはまっていた。障子紙ではない。透きとおった一枚の板が、窓いっぱいに、平らにはめこまれている。指で触れると、氷のように冷たく、どこにも波打ったところがない。その向こうに、品川の海の黒い広がりと、漁り火がいくつか、少しも歪まずに見えていた。
(こんなものを、どうやって作るんじゃ)
「俊輔、何をしちょる」
聞多の声で我に返った。
少し離れたところで、山尾庸三がしゃがみこんでいた。戸の蝶番に顔を近づけ、指先で何かをなぞっている。
「庸三さん」
「見てみい」
庸三は振り向きもせずに言った。
「この留め具のねじ。山の切り方が、一本一本ぜんぶ同じじゃ。寸分も違わん」
「そんなもん、あとにせえ」
聞多が押し殺した声で叱りつけた。
「わかっちょる」
庸三は立ち上がった。だが、俊輔は見た。立ち上がる直前、庸三の指が、外れかけていたねじを一本つまみ取って、袂に落としたのを。
戸板を外し、障子を集め、部屋の真ん中に積み上げた。その上に、聞多が焼玉を据える。
誰も口をきかなかった。自分の心臓の音だけが、やけに大きく聞こえた。
火打ち石が鳴った。
小さな火が、綿の端に移った。一瞬、何も起こらないように見えた。それから、ぼっ、と低い音がして、炎が立ち上がった。
炎は、驚くほど速く走った。積み上げた板をなめ、柱を這いのぼり、真新しい天井に届く。木の焼ける匂いと、塗料が焦げる甘い匂いが、一度に押し寄せてきた。
「引け!」
高杉の声が飛んだ。
俊輔は走った。堀を越え、柵を越え、枯れ草の斜面を転がるように駆け下りた。背中が熱かった。振り返ると、御殿山の頂きが、夜空ごと赤く染まっていた。
品川の宿の二階から、火はよく見えた。
宿の窓を開け放ち、13人はまだ荒い息のまま、燃え上がる丘を眺めていた。誰かが酒を持ってこさせた。高杉が大声で笑い、杯を高く掲げた。
「見い、異人の巣が燃えちょる。これで幕府の腰抜けどもも、目を覚ますじゃろう」
笑い声が広がった。肩を叩き合い、互いの煤だらけの顔を指さして、また笑った。俊輔も笑った。胸の中で、何かがはじけるような快さがあった。自分たちは、口先だけの連中とは違う。本当にやったのだ。
けれど、杯を重ねるうちに、その快さの下から、別のものがじわじわと浮かび上がってきた。
冷たいギヤマンの感触だった。
俊輔は、杯を置いて窓辺に寄った。少し離れて、聞多が一人で外を見ていた。ほかの者たちのように笑ってはいなかった。
「ええ火じゃのう」
聞多が、ぽつりと言った。
「……聞多さん」
「何じゃ」
「あの窓、見ましたか」
聞多は答えなかった。しばらくして、低い声で言った。
「見た」
炎の照り返しが、聞多の横顔を赤く浮かび上がらせていた。
「わしらが燃やしたあの家な。あれと同じものを、わしらは建てられん」
俊輔は、黙ってうなずいた。
「材木はある。大工もおる。じゃが、あのギヤマンは作れん。あのねじも作れん。あれを当たり前に作る国が、海の向こうにあって、その国の船が、今もこの品川の沖に浮かんどる」
聞多は杯を口に運び、それから飲まずに下ろした。
「わしらは、その国と戦をするつもりでおるんじゃ」
階下で、また高杉の笑い声が弾けた。
俊輔は、何か言わなければと思った。けれど、言葉が出てこなかった。異人を斬れ、追い払え。それが正しいことは、疑ったことがなかった。今も疑っているわけではない。ただ、追い払うべき相手が何者なのか、自分は何ひとつ知らない。そのことに、今夜はじめて気がついた。
相模の海で、あの船を見た日のことを思い出した。
帆がないのに、どうやって進むのか。
あの問いに、自分はまだ答えを持っていない。答えを持たないまま、火をつけた。
「考えるな、俊輔」
聞多が、ふいに明るい声を出して、俊輔の肩を叩いた。
「今夜は飲め。考えるのは、明日からでええ」
そう言って笑った聞多の目が、少しも笑っていないことに、俊輔は気づいていた。
夜が明けきらないうちに、俊輔は一人で宿を抜け出した。
どうしても、もう一度見ておきたかった。
御殿山のふもとには、もう人だかりができていた。火消しの半纏、寝間着に綿入れを羽織っただけの町人、天秤棒を担いだままの棒手振り。誰もが首を伸ばして、丘の上を見上げている。
公使館は、なくなっていた。
黒く焼け残った柱が何本か、骨のように空へ突き出している。まだ白い煙が細く立ちのぼり、焦げた匂いが、冷たい朝の風に乗って降りてきた。
「ざまあみろってんだ」
人だかりの中で、誰かが言った。
「桜の山を、異人なんぞに取られてたまるかよ」
何人かが笑い、何人かがうなずいた。その一方で、年寄りの一人が、震える声でつぶやくのが聞こえた。
「こんなことをして、異人の軍艦が攻めてきたら、どうするんだい」
誰も、それには答えなかった。
俊輔は、人だかりの後ろを回りこんで、焼け跡の際まで近づいた。役人の目を盗んで、柵の焦げたすき間からのぞきこむ。
灰の中に、何かが光っていた。
手を伸ばして、拾い上げた。
ギヤマンのかけらだった。昨夜、指で触れたあの窓の、なれの果てだった。熱で溶けて、ねじれて、飴のように丸まっている。透きとおっていたはずのものが、煤を吸いこんで濁り、もう何も映していなかった。
俊輔は、それを手のひらに載せたまま、長いこと動けなかった。
燃やせば、こうなる。あれほど平らで、冷たく、遠くの漁り火まで歪ませずに見せていたものが、一晩で、ただのかたまりになる。
壊すのは、たやすい。
では、作るほうは。
自分は、これを壊せる人間になりたいのか。それとも、作れる人間になりたいのか。
答えは、出なかった。けれど、問いだけは、もう胸の奥から消えそうになかった。
俊輔は、溶けたギヤマンを懐に入れた。それから、背を向けて、人だかりの中に紛れた。
数日ののち。横浜。
野村弥吉は、波止場の外れに積まれた木箱に腰かけて、英語の単語帳をめくっていた。
冬の海は鉛色で、沖には異国の船がいくつも浮かんでいる。マストの林のあいだから、煙突の煙が細くたなびいていた。
弥吉は、長州の侍の家に生まれ、野村家の養子になった。10代のうちから長崎で西洋の船の扱いを学び、江戸で洋学をかじり、箱館では航海術と英語を学んだ。萩の同じ年ごろの者たちが剣を振っていたころ、弥吉は六分儀の目盛りを読んでいた。
それでも、足りなかった。本で覚えた英語は、波止場で飛び交う英語とはまるで違った。水夫たちの早口は一語も聞き取れず、こちらが話しかけても、首をかしげられるばかりだった。
沖で、汽笛が鳴った。
低く、長く、腹の底に響く音だった。弥吉は単語帳から顔を上げ、音のしたほうを見た。一隻の蒸気船が、煙を吐きながらゆっくりと向きを変えていくところだった。
(帆がないのに、どうやって進むんじゃ)
相模の海で、利助――今は俊輔と名乗っている――がそう言った日から、もう何年たっただろう。弥吉は、あのころよりは、ずっと多くのことを知っている。ボイラーという言葉も、ピストンという言葉も知っている。図面なら、何枚も写した。
けれど、本物の機関の中を、この目で見たことは一度もない。
「弥吉」
背後で声がして、振り返った。
山尾庸三が立っていた。綿入れの襟を立て、顔は少しやつれて見えた。箱館で同じ師のもとに通っていたころから、口数の少ない男だった。
「庸三さん。いつ江戸から」
「今朝じゃ」
庸三は弥吉の隣に腰を下ろし、しばらく黙って沖を見ていた。
「……御殿山の話は、聞いたか」
「聞きました。横浜じゃ、異人たちがえらい剣幕です。長州の仕業じゃいう噂も、もう流れちょる」
「そうか」
庸三は、それ以上何も言わなかった。弥吉は、その横顔を見て、わかった。
「庸三さん。まさか、おまえも」
庸三は答えるかわりに、袂から何かを取り出し、弥吉の手のひらに載せた。
小さな、一本のねじだった。煤で黒く汚れている。
「御殿山の土産じゃ」
弥吉は、ねじを指先でつまみ、陽にかざした。
鈍い光の中で、ねじ山の筋がくっきりと浮かんだ。細く、浅く、まったく同じ幅で、ぐるりと螺旋を描いている。
「見てみい。その山、一本一本、ぜんぶ同じ深さで切ってある。手で削ったんじゃない。器械で切っちょる。英国では、それと寸分違わんものを、何千本、何万本と作るそうじゃ」
「何万本……」
「わしらは、あの家に火をつけた」
庸三の声は静かだった。
「燃やすのは、一晩で済んだ。じゃが、向こうはまた建てる。何べん燃やしても、何べんでも建てる。このねじを何万本でも作れる国じゃけえの」
沖で、また汽笛が鳴った。
「刀で、あの船は沈められん」
庸三は、手のひらの上のねじを見つめたまま言った。
「攘夷をやるいうんなら、まず相手を知らんといけん。あの船がどうして動くのか。あのねじをどうやって切るのか。それを知らんで戦をするのは、目隠しして斬り合うようなもんじゃ」
「……庸三さん、何を考えちょるんですか」
庸三は、はじめて弥吉のほうを向いた。
「英国へ行く」
弥吉は、息をのんだ。
国を出るのは、天下の御法度だ。見つかれば死罪。本人だけでは済まない。家にも、藩にも累が及ぶ。
「本気ですか」
「本気じゃ。作り方を、盗みに行く」
庸三の目は、まっすぐだった。冗談を言う男ではないことは、弥吉が一番よく知っていた。
弥吉は、手の中のねじを見下ろした。
長崎で、江戸で、箱館で、自分は何を学んできたのか。図面を写し、言葉を覚え、それでもまだ、本物の機関の中を見たことがない。この横浜の波止場で、毎日、汽笛を聞いているだけだ。
このまま、聞いているだけで終わるのか。
弥吉は、ねじを強く握りしめた。螺旋の筋が、手のひらに食いこんだ。
「わしも、行きます」
声に出してみると、不思議なほど震えていなかった。
庸三は、何も言わずにうなずいた。それから、ほんの少しだけ口の端をゆるめた。
「もう一人、行きたいいう男がおる」
「誰です」
「火をつけた男よ」
庸三は立ち上がり、綿入れの裾を払った。
「聞多さんじゃ」
冬の陽が傾き、沖の船が一隻ずつ、影になっていった。
攘夷の火を放った者たちが、その火で焼こうとした国へ渡ろうとしている。そのことの可笑しさに、そのとき弥吉はまだ気づいていなかった。
ただ、手のひらのねじだけが、いつまでも熱を持っているように感じられた。
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この章の史実と創作
史実
- 文久2年12月12日の夜、高杉晋作・久坂玄瑞ら長州藩士が、品川・御殿山に建設中でほぼ完成していた英国公使館を焼き討ちした。堀と柵を越えて侵入し、戸板などを積み上げて火を放った。
- 伊藤俊輔・井上聞多・山尾庸三も焼き討ちに加わっていた。
- 御殿山は江戸の桜の名所で、外国公使館の建設には町の人々の反発があった。
- 野村弥吉(井上勝)は長崎の海軍伝習所、江戸の蕃書調所、箱館の武田斐三郎の塾で航海術や英語を学び、文久2年には横浜・江戸で英語を学んでいた。
- 英国行きは山尾と野村が志願し、井上聞多も加わった(第二章で描く)。
有力説・補足
- 山尾も箱館で武田斐三郎に学んだとされ、2人が箱館で同じ師のもとにいた可能性がある。
- 井上聞多は当時、養子先の姓で「志道聞多」と名乗っていたが、読みやすさを優先して井上聞多と表記した。
創作
- ギヤマンの窓とねじの場面、品川の宿の二階での会話、翌朝の焼け跡、横浜の波止場での会話は創作。
- 山尾が持ち帰った「ねじ」と、伊藤が拾った「溶けたギヤマン」は、物語を通して使う小道具(創作)。
